神宮皇后を語る 神宮皇后の真実 神宮皇后真説

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後藤幸彦著  税込 2,100円 
07年10月刊 


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この説話は、神功皇后の夫である仲哀天皇が、熊襲が九州で反乱を起こしたので、その征伐に皇后を伴って九州におもむいたことにはじまる。
 九州の陣営において、皇后は神掛かりをして、まず新羅を討てといったが、 天皇が神の啓示に従わず、祟りにあって死に、そこで自身が新羅を討つために 軍勢を率い、その時懐妊していたので鎮懐石を腰にはさんで出征し、帰国して から出産(産み月を延ばした)した、という。
 遠征のときには、魚の助けによって進んだとか、勢い余って波とともに、新 羅の国の半ばまで押し上がり、驚いた新羅王が降伏し、それを聞いた百済、高 句麗も降伏したという。帰国するや瀬戸内海を東進し、息子と敵対関係にあっ た異母兄弟を討って息子を皇位につけたという話になっている。
 まるで子供だましのお伽噺である。もしあったとしたら、超常現象である。 こういうことはありえないとして、神功皇后は存在しなかったという根拠にもなっているのである。

この本を読まれる人に次の本をお薦めします。
「卑弥呼の孫 トヨはアマテラスだった」
「卑弥呼の登場」
「後醍醐天皇〜竹ノ内文書による〜」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 















   まえがき

 今から千六百年ぐらい前、その美貌ゆえに、数奇な運命を辿った一人の少女がいた。
 その名は気長足姫尊、いわゆる神功皇后である。
 仲哀天皇が彼女の夫であり、応神天皇はその子である。
 彼女の事跡は古事記・日本書紀に載っているにもかかわらず、その存在すら 危ぶまれているのである。
 というのは、問題はこの古事記・日本書紀の信憑性にある。
 古事記は七一二年、日本書紀は七二〇年に完成した日本で最も古い官撰史書 なのであるが、この二書の古い時代の部分は、現在、正規の史書とは認識され ておらず、かなりの部分が記紀の編纂者の造作によるものとされているからで ある。
 その理由の一つは、(神代時代をのぞいても)奇想天外な説話や心霊的な説 話がみられること、次に、天皇の年令や在位年等が、異常に長いということ、 更に、似たような説話が繰り返されていること、そして、外国の史書と整合す る所がみられないということなどがあげられている。
 その中でも特にこの神功皇后紀が最も造作の程度がひどいといわれ、           後略


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       目 次

 はじめに …………………………………………………………………… 7
 第一部 神功皇后の時代     第一章 神功皇后の新羅遠征 ……………………………………… 12
    第二章 神功皇后と気比大神 ……………………………………… 42
    第三章 神功皇后と住吉大神 ……………………………………… 58
    第四章 神功皇后と熊野大神 ……………………………………… 84
            新羅王はいつ殺されたのか ……………………………… 114
            摂政元年の日食 ………………………………………… 119
    第五章 神功皇后の朝鮮経営 ……………………………………… 126
 第二部 日本書紀二倍年暦     第一章 倭の五王の年代 …………………………………………… 146
            古代天皇の長寿 ………………………………………… 146
            倭の五王は誰か ………………………………………… 158
            漢風諡号と倭の五王 …………………………………… 169
            日本書紀にいない倭の五王 ……………………………… 172
    第二章 応神天皇と倭の五王 ……………………………………… 175
            好太王碑文 ……………………………………………… 175
            三国史記 ………………………………………………… 182
            古事記日本書紀 ………………………………………… 185
            神功皇后と卑弥呼 ……………………………………… 189
            応神紀の二倍年暦 ……………………………………… 193
            応神天皇と阿王 ……………………………………… 197
            応神天皇と好太王 ……………………………………… 201
            直支王の没年 …………………………………………… 217
            百済辰斯王 ……………………………………………… 220
            武内宿禰の九州監察 ……………………………………… 222
            高句麗の覇権 …………………………………………… 225
    第三章 各天皇の年代 ……………………………………………… 232
            雄略天皇の年代 ………………………………………… 232
            安康天皇の年代 ………………………………………… 237
            抹消された安康天皇 ……………………………………… 242
            武の上表文 ……………………………………………… 246
            允恭天皇と反正天皇の年代 ……………………………… 248
            仁徳天皇の年代と虚構年 ………………………………… 252
    第四章 古事記分註天皇崩年干支 ……………………………… 258
            古事記分註天皇崩年干支 ………………………………… 258
            仲哀天皇の年代 ………………………………………… 261
            仁徳天皇から安康天皇まで ……………………………… 264
            允恭・安康・雄略間について …………………………… 269
            応神紀の春秋年 ………………………………………… 273
            二倍年暦はどこから来たのか …………………………… 279
            景行天皇の年代 ………………………………………… 289
  おわりに …………………………………………………………………… 298
 付録 メジャーで辿る邪馬台国 ………………………………………… 301


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   第一章 神功皇后の新羅遠征
 
 記紀の記述は、記紀編纂時において、役人による創作であるという説の格好 の例のひとつとされる説話として、神功皇后の三韓征伐がある。
 その内容が、奇想天外なお伽噺的であり、神話的であり、科学的に説明でき ない非現実的な事象であるとみられるからである。そのため、戦後はほとんど 顧みられることもなく、歴史として扱われることもなくきているといってよ い。
 しかし「記紀」や外国の史料を調べていくと、五世紀以降、大和朝廷が朝鮮 半島に進出し、半島各国に大きな影響を与えていることは確かなのである。な らば、この日本による朝鮮進出は、いつごろ、どのような事情で、どのような 過程を経て行なわれたのかを考えていくことは、日本の古代を知る上で、極め て重要なことなのである。
 日本と朝鮮の史料を比較する限りにおいては、朝鮮側の史料である「三国史 記」では、倭の侵寇はあったが、全て撃退したのであり、それでいながら高句 麗側の史料である「好太王碑文」では、驚くことに倭の軍は遠く帯方郡の故地 にまで進出しているのである。
 これらの半島における倭の本格的な活躍の始まりは、日本側の史料の「記 紀」の中の神功皇后の項にしか見られない。  いわゆる、戦前には国史として教えられた「神功皇后の三韓征伐」である。
 それでいながら、現在神功皇后の説話は前述したように、歴史としてはまと もに扱われていない。この神功皇后紀がでたらめであるとして否定されるな ら、それでは一体誰が何時、半島への進出をはじめたのであろうか。
 そこで、神功皇后の三韓征伐の説話はそれほど非現実的な架空の説話なのか を、改めて見なおしてみたい。
 まず、神功皇后の説話の中の新羅遠征について、現実的にかつ科学的に説明 できないものなのかを考証してみることにした。神功皇后の説話が創作である と思われていたのは、そもそもその内容の非現実性に起因しているからであ る。
 論考にはいる前に、説話の概要を示してみよう。
 この説話は、神功皇后の夫である仲哀天皇が、熊襲が九州で反乱を起こしたので、その征伐に皇后を伴って九州におもむいたことにはじまる。
 九州の陣営において、皇后は神掛かりをして、まず新羅を討てといったが、 天皇が神の啓示に従わず、祟りにあって死に、そこで自身が新羅を討つために 軍勢を率い、その時懐妊していたので鎮懐石を腰にはさんで出征し、帰国して から出産(産み月を延ばした)した、という。
 遠征のときには、魚の助けによって進んだとか、勢い余って波とともに、新 羅の国の半ばまで押し上がり、驚いた新羅王が降伏し、それを聞いた百済、高 句麗も降伏したという。帰国するや瀬戸内海を東進し、息子と敵対関係にあっ た異母兄弟を討って息子を皇位につけたという話になっている。
 まるで子供だましのお伽噺である。もしあったとしたら、超常現象である。 こういうことはありえないとして、神功皇后は存在しなかったという根拠にも なっているのである。
 それではこれらの恍エ常現象揩ヘ果たして現実にはありえない事象なのであ ろうか。一つ一つ現代科学の目で見直し、検証していってみよう。
 神功皇后の新羅遠征は、仲哀天皇の熊襲征伐からはじまった。
 神功皇后は、九州の香椎宮において神懸かりをして神託を述べた。その中 で、熊襲を撃つより新羅を討てとの神の言葉を伝えたのである。その有様は、 天皇が琴を弾き、皇后が神託をうけ、武内宿禰が神の命を聞いたという。
「西の方に国あり。金銀を本として、目の輝く種々の珍しき宝、多にその国 にあり。いまその国を帰せたまはむ。」とのりたまいき。
 そこで天皇は、高い所に登ってみたが海しかみえない。これはいつわりをな す神であろうとして退けた。
 すると神は、
「凡そこの天の下は、汝の知らすべき国にあらず。汝は一道に向ひたまへ (死んでしまえ)」
といったという。
 そこで武内宿禰がもう一度ひくように進言し、天皇はしぶしぶ琴を弾き始め たが、じきに死んでしまった。
 この光景から、たとえ神懸かりとはいえ、決して仲睦まじい夫婦という状態 ではないことに気づかれたことと思います。しかも二人の関係は、皇后が優位 にたっているように見られる。
 そもそも皇后は仲哀天皇の正妃ではなく、大中媛が正妃であり、坂王と忍熊 王の二子がいたのである。そのほかにも多くの妃がいたはずであるが、それら 数多くの妃の中から特に神功皇后が選ばれて随伴したものである。(カゴサカ 王のカゴは以後古事記の香の字を使います)
 その理由のひとつは、彼女が神霊的な言動を弄することにあった。戦の時 に、神の御託宣を求めたり、不吉な事象のお祓いをしたり、相手を呪ったりす る人を随伴することは、特に昔においては珍しいことではなかった。
 もう一つの理由は、天皇が皇后に惚れ込んでいたことにある。
 しかるに、対する皇后の天皇に対する態度は、とても相思相愛とはいえない 様に見られる。特に神懸かりのときにみられる言動は、神を通しているとはい え激しい憎悪に満ちている。(その詳しい原因については、次の神功皇后と気 比大神の所で述べる)。

 あ、ゴメンナサイ。立ち読み部分はここで終わりなんです。ここまで読んで下さって有りがとうございます。
 このあともっと面白くなりますから買っていただけるとすごく嬉しいです。 

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 著者プロフィール
1947年 青森県青森市に生まれる。
  1970年 弘前大学教育学部卒
        神奈川県相模原市立小学校教論となる
  1989年 吉野ヶ里遺跡発掘に刺激され、古代史研究に取り組む
  1991年 邪馬台国に到達
  1992年 卑弥呼の墓を発見
        以後検証を続け、1999年に「倭国歴訪」(明窓出版)を出版
  2000年 持病のために退職し、以後は古代史研究に専念している
  2002年 「卑弥呼の登場」(明窓出版)を出版

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