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紀元2世紀末のユーラシア大陸東部。秩序を失った支配層に対し、“志気”ある人々が集い織りなす一大スペクタクル!!

 すべては、無からはじまった。  黄土高原の南に無窮に拡がる国、中国。
 かつて、ここには緑原、黄土、堅岩、河水が大いなる天のもと、地上で無造作に勝手気ままに呼吸をしているだけであった。  人間などの入り込む余地は何処にもなく、ただ、天と地のみであったのである……。中略
 はじめは一方的に押されていた高順も、槍戟を三十合ほど交えたくらいから、呂布の方天戟にかすかな隙をみいだした。  さすがは河陽以来、着実に腕を上げてきた男である。
(今日のアニキは、左から大きく月牙で斬り込んでくる時、右の脇腹ががら空きになるな。よっしゃ、そこをいっちょういったるか!)  斬り結ぶこと三十五合目であった。  呂布が左腕一本で地上二尺(約46センチ)の低いところから、一気に高順の右顔面めがけて、眩しく光る月牙をぶち込んできた。

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   推薦の言葉
●●●●●推薦の言葉の中身●●●●●

































  まえがき

●●●●●まえがきの中身●●●●●

























       目 次




●●●●●目次の中身●●●●●



























      一、募兵の章




   一

 すべては、無からはじまった。
 黄土高原の南に無窮に拡がる国、中国。
 かつて、ここには緑原、黄土、堅岩、河水が大いなる天のもと、地上で無造作に勝手気ままに呼吸をしているだけであった。
 人間などの入り込む余地は何処にもなく、ただ、天と地のみであったのである……。
 人間暦二十世紀末。
 内蒙古高原を北にひかえた陰山山脈を背にし、明の朱王朝時代に造り直された万里の長城に攀じ登る。
 四方を眺望し、まず眼に飛び込んでくる建物は、黄土高原の東、山西省にある。
 山西省の省都太原市は、北京の西南約五百二十キロのところに位置している。
 現在は百万をはるかに超える人口を有し、豊富な地下資源をいかした重工業の町として、山西省の政治や文化の中心となっている。
 今から約二千五百年前の春秋時代には晋が都を置き、続く戦国時代には趙の中心として栄えたここ太原は、後漢王朝の時代では并州(山西省一帯)の一地域としての地位を辛うじて保っていたにすぎなかった。

 光熹元年(一八九)六月のある日。
 ここは、并州の州都・晋陽である。
 朝靄のなかに十人足らずの男たちが馬上に腰を下ろしている。
 最前列の男がたくわえている口髭に、頭上から、かすかに光が降りそそぎ、男の額に跳ね返っている。男は、それを気に留めることもなく、しきりに口髭をこすっている。どうやら癖らしい。
 その男の後ろで、河北の土とあまり変わらない皮膚の色を持った男たちが四、五人、馬脚を南に向けて続いている。
 その群れから一里(約四百十五メ|トル)ほど後方、手綱を力の限り握りしめ、馬からふり落とされないようにその背を両腿で挟み込んでいる男が、ぎこちなく前へ進んでいる。
 その男の頭上に靄はなく、吹き始めたばかりの朝の風が、男の不自然な所作を次第にときほぐしていくようである。
 四刻(一時間)後、なんとか前を行く馬群に追いついたこの色白の男の全身は、安堵感に満ちていた。
(洛陽か。これで二度目だな……)
 最後尾の男、曹性はそうおもった。
 昨日の雨でできた道端の蒼色の水面に、少し前の朝の風が斜めに吹き降りた瞬間、さざ波が立った。が、すぐに散り失せた。
 やがて、消えた波間をふたたび求めるように、風に乗ってやってきた柳絮が、すこし遠慮がちにその蒼面に舞い降りた。
 曹性は、そのようすを視界が許すかぎり、馬上からずっと視ていた。

 洛陽を首都とした後漢王朝は、年数で計れば西暦二五年から二二〇年まで、約二百年間続いた王朝であるが、まともに機能したのは三代目(光武帝・明帝・章帝)までの、およそ六十年に過ぎなかった。
 四代目以降は、幼弱な皇帝が相次いで即位し、幼い帝の母にあたる皇太后が摂政として君臨するようになると、皇太后の血縁の者は、外戚として内朝(皇帝政務秘書の宮中)の権力を独占しはじめた。
 かれらは、やがて掌握した強大な権力を振り翳し、残虐非道な収奪をほしいままにするようになる。
 このような内朝、即ち外戚の専横に対して、その打倒を目指したのは宦官勢力であった。
 外戚の専制によって内朝が形骸化し、皇帝から疎遠になってしまった時、対抗勢力は皇帝のもっとも身近に侍していた宦官以外には存在しえなかったのかもしれない。
 ときに、宦官は一時的な外戚追放には成功するが、かわって権力を握るやいなや、外戚に輪をかけて跳梁跋扈する始末。
 大豪族層からなる外戚とは異なり、自らの勢力の礎を持たないかれらは、ひたすら公権を私物化するために邁進し、本能剥き出しの収奪を繰り返した。
 後漢時代の中・末期の政治は、外戚と宦官の陰惨な権力抗争に終始し、帝権そのものも腐りきっていたのである。
 このような虐政に対し、公然と批判の声をあげたのは、地方の中小豪族であった。
 酷吏による略奪と絶え間なく続く天災によって、農村は疲弊の極みに達していた。
 人々は生活の新たなる糧を求め、流民となって彷徨し、全国の至るところで小規模な一揆が頻発していた。
 自分たちの勢力基盤がこれほどまでに悲惨な状況に陥ってしまったのをおもい知らされた中小豪族たちは、「清流」派知識人を代弁者として支持し始めるようになった。
 外戚や宦官の「濁流」派を表立って批判した「清流」派が、豪族でありながらも清廉な生活を送り、新しき農村秩序を模索しはじめていたからである。
 が、その「清流」派も、二度にわたる党錮事件で、外戚・宦官の「濁流」派に虐げられてしまう。
 中平元年(一八四)二月、呪術師の張角に率いられた黄巾賊なるものが蜂起し、全国を席巻し始めた。
 新たに生き延びるための糧を求めて人々がさがし続けたのは、酷い官吏のいない、搾取のない、人間ひとりひとりが助け合いながら生きていく共同体にあったのである。
 かれらの理想は、漢中に栄えた五斗米道の中にも垣間見ることができる。
 中国東北地方の冀州・鉅鹿より興った黄巾賊と、中西地方の漢中で浸透していった五斗米道に対し、危惧の念を抱きはじめた朝廷は、東西両勢力の連携をおそれて、黄巾の乱の勃発直後、正義派の中常侍(後宮の接待をする宦官)である呂強の進言に従い、「濁流」派の外戚・宦官の手で排斥させられていた「清流」派に大赦令を下した。
 その結果、中小豪族たちは挙って反乱鎮圧にまわり、乱自体は一応の終焉をむかえる。
 この黄巾の乱は、一種の農民一揆ではあるが、腐りきっていた朝廷に対する一大警鐘となるはずであった。
 しかし、それを警鐘として真摯に受けとめ、朝廷内の綱紀粛正をはかる人物としては、第十二代の霊帝・劉宏はあまりにも脆弱・暗愚であった。
 霊帝は、後宮内に市場を造り、女官連中を売り子に仕立てて、互いに品物を盗ませた。
 自身も商人姿で加わって、飲めや歌えやの酒宴を繰り広げるほどの興じようであった。
 さらには私財を蓄えることにうつつを抜かし、官爵を売りつけ、珍品を中国全土からあれやこれやと取りよせたのである。
 中常侍の中では珍しく憂国の志を持っていた呂強の諫言にも、馬耳東風というありさま。
 他の側近連中は諫めるどころか、前にも増して私腹を肥やすのに精を出す始末である。
 このように陳腐堕落した朝廷内において、にわかに新しい勢力が台頭してきた。
 反乱鎮圧に功のあった武将たちである。
 かれらは、数々の戦闘を経て、地方に確固とした軍事・経済の基盤を築き上げ、もはや朝廷の一存では動かすことができないほどの実力を蓄えていったのである。
 皇甫嵩、朱儁、袁紹、曹操、董卓らがその代表で、かれらによって担ぎだされたのが、霊帝の正室・何皇后の兄で、大将軍(臨時の最高武官職)の何進であった。
 何進は字を遂行といい、南陽郡(河南省南陽県)の産である。もとは、豚や犬の屠殺を生業としていた。
 が、腹違いの美貌の妹が、霊帝に見初められて後宮に入り、寵愛をその嫋やかな肉体で一身に受け入れるようになると、何進自身も郎中(近習)に取り立てられた。
 さらには、光和三年(一八〇)十二月、妹が皇后に立てられると、兄の方は、侍中(近侍武官)から将作大匠(造営長官)、何南尹(首都圏長官)へと、とんとん拍子に出世して、ついには大将軍にまで、なってしまった。
 綺麗な妹さまさまといったところである。

 何進が黄巾の乱のときに反乱鎮圧の総帥として大将軍職を拝命してから、すでに五年の歳月が流れていた。
 この年の四月十一日、霊帝が崩御した。享年三十四歳。二日後、皇子の弁が十七歳で即位し少帝となり、元号も中平六年から光熹元年へと改元された。
 当時の何進は、朝廷政治の実権をめぐる宦官勢力との熾烈な政争を余儀なくされていた。
 敵対する宦官を根絶やしにするために、何進は中軍校尉(一八八年に霊帝の近衛兵として新規に編成された西園八校尉の一つ)の袁紹と宦官誅殺計画をとりまとめ、妹の何太后(少帝の生母)に許可を求めた。
 ところが太后は、
「宦官が宮中の諸事万端を取り仕切るのは、古より漢室のしきたりではありませんか。どうしてやめさせることなどできましょうや」
と、反対してしまう。
 これを聞いた袁紹は、何進に対し、
「四方の豪族や武将連中を多く呼び寄せ、軍を率いて上京させて何太后を脅してみてはいかがでしょうか?」
と、進言した。何進はこれを良案とし、部下に命じて、早速行動に移らせた。
 間もなく、前将軍の董卓、府の掾(大将軍の付属官)の王匡、東郡太守の橋瑁、騎都尉(近衛騎兵隊長)の丁原らが遠路よりやってきて、帝畿(首都洛陽付近)に駐屯するよう命じられた。
 駐屯軍のなかで、何進によって騎都尉から新たに執金吾(憲兵隊司令)に任じられた丁原は、首都圏の治安を維持するため、洛陽の北、五十里(約二十一キロ)に位置する河陽に移動するよう命じられた。
 丁原配下の武将のひとりに、かれが并州刺史(并州行政長官)時代に見い出した呂布という巨男がいる。
 五原郡九原県(内蒙古自治区包頭市付近)という北の辺境の地にて、呂布はこの世に生を享けた。
 そこは、みわたすかぎりの草原地帯であり、かれは五原地方の有力な勢力である鮮卑というモンゴル系遊牧騎馬民族らと生活をともにしていた。
 鮮卑族は遊牧し、主に狩猟で日々の生活を営んでいる騎馬民族であるため、呂布自身も、自ずと弓術や馬術に長じるようになった。
 とりわけ腕力においては、中原(黄河中流から下流の平原地帯)の人間に対して、はるかに抜きんでるほどまでに上達した。
 併せて、挑戦的で剽悍な動物的感覚や獲物を仕留める時の味方を統率する能力も自然に身につけていった。
 のちに、呂布自身が率いる軍団が海内無双の強さを誇るようになるが、これは草原で鮮卑族とともに狩猟生活をしていきながら無意識に培った兵卒を率いる並外れた統率力にあったのである。
 呂布は「飛将軍」という渾名を持っていた。
 その渾名は、前漢最盛期の武帝時代、弓術・馬術ともに優れ、匈奴から「漢の飛将軍」と畏敬された名将李広に由来するものである。
 武勇において、李広に匹敵する人物と見做されていた呂布に対し、かれの育った土地の風土が「飛将軍」と呼ばれるに相応しい勇猛さを養い育てきたことは、ほぼ間違いない。
 その持ち前の驍武によって、并州の役所に出仕していた呂布は、刺史(行政長官)であった丁原に見い出されたのである。
 丁原は呂布に惚れ込み、既に実父を亡くしていたかれを養子にして、父子の約を成した。
 中平六年(一八九)四月、袁紹の進言を容れた大将軍何進の上京命令で、丁原は軍を率いて、并州から南下することとなった。
 さて、丁原は并州の刺史である。刺史という行政の長に、兵卒を率いて都へ来るようにというのが、今回の命令である。
 それを承知していた朝廷は、これを機に丁原を騎都尉に任命し、かれが都に到着すると、今度は執金吾という軍職に就けるとともに、近衛兵五十人ばかりを直属兵士として与えた。
「これが軍隊とな。さまにならんもんじゃのう、奉先よ……」
 河陽にやって来た新兵五十人の細身の体を一瞥し、丁原は側で方天戟の穂先を丹念に磨いている呂布に、溜め息をついてこういった。
 奉先とは、呂布の字である。
「ああ、まったくだな、オヤジ……」
 丁原の視線の方向に首だけを向けて、呂布は応えた。
 都にやって来る直前の職は、并州領内の郡太守・相(二つとも行政責任者)の目付的な職限しか任されていなかったので、丁原に、ほんとうの恁R隊揩ネど、有りはしない。
「奉先よ、ちと面倒じゃが、月の半ばぐらいから、太原へ兵士を募りにいってくれんか? 文遠には雁門に、明文には上党に行ってもらうつもりじゃがのう……」
 文遠とは、今回一緒にやって来た張遼の字であり、明文とは、侯成のそれのことである。
 太原は、洛陽の北北西千六十一里(約四百四十キロ)に位置する。
 雁門(山西省北部)、上党(山西省南東部付近)はそれぞれ、北へ千三百三里(約五百四十キロ)、北へ五百十八里(約二百十五キロ)のところにある。
「わかったよ、オヤジ。あんな鳥がらみてえなやつらだけじゃ、話にならねえしな。今は六月だから二ヵ月ぐらいみてくれよ、いいだろう? 太原はオレの故郷に近えから、案外人間集まっちまうんじゃねえんか……」
 呂布の故郷、五原郡九原県は、洛陽から北北西に三千六百六十里(約千五百十八キロ)の距離にある。
 太原からさらに二千六百里(約千七十八キロ)以上も北北西に行ったところを、
怎Iレの故郷に近えから……
と、いってすましてしまうこの男は、いったいどれほどの体力の持ち主なのであろうか。
 呂布は続けていう。
「で、オヤジとしちゃ、太原でどのくらい要るんだい?」
「そうじゃのう、太原でじゃったら、三千人も集めりゃええじゃろうて」
「よっしゃ、わかった。明日からちょっくら行ってくらあ!」
 方天戟の穂先磨きをひとまず終えた呂布は、丁原のことばを快く受け入れて、かれの指示を張遼と侯成にも伝え、さっそく出発の準備に取りかかった。



 あ、ゴメンナサイ。立ち読み部分はここで終わりなんです。ここまで読んで下さって有りがとうございます。
 このあともっと面白くなりますから買っていただけるとすごく嬉しいです。 


















 あとがき

  ●●●●あとがき●●●
   























 著者プロフィール

1969年 愛知県岡崎市生まれ
1998年11月 第67回コスモス文学賞新人賞
      長編小説部門新人賞
      現在 給与所得者






















本の誕生秘話

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関連書籍の紹介

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 読者感想文

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