悟りを得るために 悟りの心構え 悟りの方程式 悟りそのまま

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    この本は、もともと筆者が平成6年頃までに書き留めていた私的な随想を基に、一編に纏め上げたものですが、そのきっかけはオウム事件でした。
この事件は、筆者がかねてより懸念していた、宗教にまつわる矛盾や不条理を露呈したシンボリックな事件だったからです。
一部のオウム幹部が犯した犯罪は犯罪として厳しく断罪されなければなりませんが、残された敬虔な信者はどうなるのか、どこへ行くのか、何を頼りに生きるのか。
この問題は、信者自身にとって、「マインドコントロールからの解放」といった次元の問題ではないと思います。真に悟りを求める者にとって癒される道はただ一つ、それは、
悟りを得ること以外にないはずだからです。

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         別府愼剛 著





 無師独悟





                                   明窓出版



















   推薦の言葉
●●●●●推薦の言葉の中身●●●●●

































         はじめに


悟り≠ヘいうまでもなく仏教の存在理由である。仏教にはその根底に悟りというものがあったからこそ二五○○年という長い年月に堪え、アジアのほぼ全域に広がり、東洋文化の礎となってきたのである。
 ところで、この仏教の悟り≠ニいうことばに対して読者は何らかの先入観をもっているはずである。それは、近寄りがたい崇高なもの、不可思議なもの、なにやらあやしげなもの、古くさく抹香くさいもの、一種の錯覚による自己満足、エクスタシー、超能力、等々いろいろであろう。
 次のエピソードは明治時代の落語家三遊亭円朝が悟りを得たときの様子であるが、はたしてこれらの先入観のいずれが当を得ているだろうか。  後略


























           もくじ






はじめに…………2
  達磨の心…………6    悟りの世界…………9
    般若の論理…………64    現 実…………74
      見 性…………78     自 己…………85
        直用直行…………98    一切転倒夢想…………110
          不立文字…………151    禅問答…………156
            事の世界…………165    無師独悟…………187


























         達磨の心






 私たちの一生にはいろいろな出来事があり、そこには真や善や美があり喜怒哀楽があって、いつしか必ず死を迎えるのであるが、この間、私たちの人生そのものを支えるものはいうまでもなく私たちの、意識つまり認識であり知識である。私たちの物事の認識の仕方(認識の形式)は時代を超え国境を超え人種を超え個人を超えてみな一様である。認識の内容は個人個人の経験によって異なるものであるが、認識の仕方そのものは人間である以上みな一緒である。この私たちの普遍的な認識の仕方は「相対知」という認識の形式であり、これこそが私たち人間を人間たらしめている根本的な人間意識である。私たちはこの「相対知」によって自らの人生をそれなりに認識して一生を終えるのであるが、それだけではなんとも勿体ない人生といわなくてはならない。なぜなら、私たちにはこの「相対知」とは全く異なる「知」が本来的に具わっており、この異なる知によって認識される世界がいわゆる仏教の「彼岸」であるが、この彼岸には「相対知」によっては決して得ることのできない「安心」「自由」「創造」「愛」といった真の生きる喜びがあるからである。
 二五〇〇年前、この全く異なる認識の仕方を発見したのが釈迦牟尼(西暦前四六三?〜三八三?)すなわちお釈迦さまである。私たちの認識の仕方とは根本的に異なる釈迦の認識の仕方は「般若」といわれるものであるが、この「般若」を得ることが悟りであり、この悟りを得ることを唯一の目的とする仏教の宗派の一つが禅宗である。禅宗の宗祖は釈迦牟尼の次の第一祖摩訶迦葉から数えて二十八代目の祖師である菩提達磨(?〜五三○?)、つまり達磨さんである。達磨は西暦五二○年頃インドから中国に渡り、当時の腐敗した中国仏教(中国への仏教伝来は西暦二年?)に対して、正統の仏法として、一切の教理的、教条的、宗教的な邪魔物を排し、礼拝する神仏なく、もっともらしい教説なく、仰々しい儀式なく、したがって御殿のように立派な寺院も必要なく、いわんや来世とか霊魂とか奇跡とか超常現象とか超能力といった訳の分からないものには一切関与せず、また、いかなる力(権力、地位、名誉、金)にも無縁であり、群をなさず、自給自足あるいは乞食生活をしながら、ひたすら「般若」すなわち悟りのみを求め、悟りのみを伝え、悟りのみに生きるという「悟りの一点」「悟りの一心」のみを説いたのである。

「裏に向い外に向い逢着すればすなわち殺す。仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」
と言い切ったのは臨済宗の宗祖である臨済義玄(?〜八六六)であるが、真意のほどは後に述べるとして、この一途な強さは、臨済の後進に対する愛情であり、悟りの意義の確信ゆえである。達磨の心そのものである。
 要は仏教の存在理由である悟りさえ伝え残すことができればそれで十分なのである。長い歴史の流れのなかでは一切の物事が腐敗し風化し形骸化するものである。達磨は仏教の原点復帰を説いた偉大な中興の祖であり、達磨以降も幾人もの中興の祖を輩出させた禅宗ではあるが、歴史は常にすべてを曇らせてしまうのである。かつては、悟りさえ伝え残すことができればという達磨の思いであったが、今では、その肝心要の悟りを伝えることができる覚者(悟った人)の存在そのものが定かではなく、今のことば今の表現で説くことそれ自体が不在である。つまり、悟りそのものが骨董品になってしまっているのである。
 悟りは現実的で実利的で日常生活そのものでなくてはならない。私たちの日常生活から遊離した悟りなど無用である。確かに、真撃に生きることははやらない今の日本ではあるが、いかなる世においても不可欠なものであってこそ真価である。悟りは今に生きているものとして伝えられなければならない。達磨の心は常に引き継がれなければならないのである。
         悟りの世界

 私たちはどこから来てどこへ去っていくのだろうか。どこからどこへという以上、今いる所が分かっていなければならないが、はたして、こうして今いる所が分かっているのだろうか。私たちは何を分かっているというのだろうか。私たちは、今、一体何をしているのだろうか。生きているということは不思議である。世界があるということは不思議である。超能力とか心霊現象とか超常現象とかUFO等の暇つぶしの不思議に騒ぐ以前に、私たちは十分に根本的な不思議に直面しているのである。
 読者には、今、この本を読んでいただいているのであるが、読者の目の前にあるこの本が「あるといったら間違いであり、ないといっても間違いである」といわれたら、おおかたの読者は「あるに決まっているものを……」と一蹴するだろう。私たちのものの見方、考え方は一様である。私たちには普遍的な世界観がある。私たちには普遍的な事実認識に基ずく世界観がある。人種を超え国境を超え時代を超えて、誰しも決して疑わない、疑いようのない事実認識がある。それは、ここに私という人間がいて自然を意識しているという事実認識である。私と自然(物質)、つまり精神と自然という二つの実体(恒常的な真の存在)があって、その間に意識現象(経験)があるという事実認識である。読者には今この本を読んでいただいているのであるが、読者という精神を持った実体がこの本という実体を見ているという経験をしている、そこに意識現象がある、という事実はあまりにも明らかなことである。
 しかし、古来、この自明の理ともいうべき「私の目の前に本がある」という事実認識は、仏教においても、私たちのものの見方を代表する哲学においても、簡単に自明の理としてかたずけられる問題ではなかったのである。なぜなら、私たちが「私の目の前に本がある」というとき、それは既に矛盾だからである。私たちの普通の世界観はこの矛盾をそのままにして、その上に築かれた世界観なのである。私たちのすべての苦悩はこの矛盾に由来するものである。したがって私たちが苦悩を根本的に克服するためにはどうしてもこの人間の原点ともいうべき矛盾そのものを解決しなければならないのである。二五○○年前、この人間の原点である矛盾を悟りという特殊な体験によって最初に克服した人物が釈迦である。釈迦は私たち人間の「意識の不思議」をみずから解き明かすことによってこの矛盾を超越したのである。悟りとは私たちの意識の真のメカニズムを体験的に知ることであり、これによって夢想だにしなかった意識の別天地が拓けることであるが、この別天地がいかなるものであるかを最も単純明解に表わしているものが、「観自在菩薩が悟りを得て(般若によって)彼岸に達したとき、」というくだりからはじまる『般若心経』である。『般若心経』の内容は、悟りを得た観自在菩薩が、彼岸とはどのようなものであるか、悟りの世界とはどのようなものであるかということを舎利子(釈迦の十大弟子の一人)に説いているものであるが、その具体的内容は私たちの世界観では決して理解することができないものである。『般若心経』の内容は「悟りの世界観」そのものである。したがって、『般若心経』の解釈は観自在菩薩の立場、つまり悟りの立場に立たないかぎり不可能なのである。この事実を明らかにするために、まず、私たちの普通の世界観で解釈した『般若心経』の解釈の例として『こころをよむ仏典』(中村元・日本放送出版会)、および『若心経を読む』(ひろさちや・すすき出版)を紹介し、次いで、悟りの見地から『般若心経』を説明(解釈)して、その相違を明らかにしたい。

        仏説摩訶般若波羅蜜多心経

      観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。
(次は中村元氏の、サンスクリット原文についての現代語訳である)

      般若波羅密多心経

 求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見ぬいたのであった。
 シャーリプトラよ、この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質現象で(ありうるので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。シャーリプトラよ。この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じたということもなく、滅したということもなく、……
 それゆえに、シャーリプトラよ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない(以下省略)。


 (次はひろさちや氏の現代語訳である)

ほとけが説かれたすばらしい般若波羅密(智慧の完成)の真髄を教えた経。

 観自在菩薩は、別名を観世音菩薩といい、一般に「観音さま」と呼ばれ親しまれている菩薩(仏に向かって歩む者)です。その観自在菩薩は、かつて大乗仏教の仏道修行として深般若波羅密││深き智慧の完成││を実践されましたが、そのとき、精神も肉体もいっさいが「空」(実体がなく、相対的であること)であることを照見され、その悟りによってすべての苦悩、災厄を克服されました。
 舎利子(釈迦の十大弟子の一人)よ
物質は「空」にほかならず、「空」が物質にほかならないのです。物質がすなわ「空」であり、「空」がすなわち物質であります。感じたり、知ったり、意欲したり、判断したりする精神のはたらきも、これまた「空」なのです。
 舎利子よ
このように物質と精神のすべてが「空」なるありかたをしていますから、生じたり滅したりすることはなく、きれい汚いもなく、増えもせず減りもしないのです。したがって、「空」のなかには、肉体もなく、感受作用・表象作用・意志作用・認識作用といった精神活動もなく、眼・耳・鼻・舌・身・意(こころ)といった六つの感覚器官もないし、その六つの感覚器官の対象となる色(いろとかたち) ・声・香・味・触・法(概念)だってありません(以下省略)。

 これら二つの『般若心経』の現代語訳は、いずれも「相対知」によるものであり、これでは観自在菩薩の真意を伝えることはできず、観自在菩薩も納得できないであろう。現代語訳とはいっても、そこには訳者の責任ある解釈が要求されるのである。物事の真の解釈が成り立つのは、物事を外側から見るのではなく、自らの経験内容と重ね合わせて内側から見る時である。この意味でいえば、物事には多様な解釈が成り立つのではなく、物事の経験内容には多様な表現があり得るということである。『般若心経』は覚者の悟りの経験の表現である。したがって、この経験と重ね合わすべき自らの悟りの経験を持たない者は、他者はもとより、自らをも納得させる解釈はできないはずである。仏教に博識であるということと、悟りを得ているということとは全く別物である。悟りを得ずして仏教は語れないのである。
 次は悟りの立場からの『般若心経』の説明である。
 偉大な般若(智)によって彼岸へ渡るための重要な経


 あ、ゴメンナサイ。立ち読み部分はここで終わりなんです。ここまで読んで下さって有りがとうございます。
 このあともっと面白くなりますから買っていただけるとすごく嬉しいです。 


















 あとがき

 ●●●●●あとがきなし●●●●●
























 著者プロフィール

●●●●●著者プロフィールの中身●●●●●





















本の誕生秘話

 多いときは4〜10組ほどの原稿が送られてくる。勿論、特に面識のある人ではない。
 この原稿もそんな一つだった。普通、編集者任せの方だが、その時はふと手に取ってみた。
 なんとなく……ほんとになんとなくだらだらと読み終わった。結局何を書いているのか分からないままに、脇に積んでおいた。
 ただ、悟るにはとか、悟ったらとかを書いていることだけは分かった。
 一週間もたった頃だろうか「別府といいますが原稿を読んでもらえたでしょうか」と電話が入った。「渋谷辺で一度お会いしましょうか」そう返事しながら自分で驚いていた。なんでそんな返事が口から出たのだろう……訳が分からないうちに会う場所などが決まっていき、ますますとまどいを感じていた。ま、会うだけは会ってみようと約束の場所に出向いた。
 別府さんは実にさりげないおじさんだった。これを見たら「お前だって超おじさんだろう!」と怒るに違いないが。彼と話しているうちにどんどん話が出版の方に進んでいるのを我ながらおかしい程とめられない。結局、別に彼の強引さに押し切られたわけでもなんでもないのに本の体裁やら、タイトルやらがちゃんと決まってしまった。
 出版契約書を取り交わしたとき、声を殺して彼は慟哭した。
 なぜか私も大泣きに泣いた。今もってそれがわからない。
 ただ、ただである。『単細胞的思考』に勝るとも劣らない葉書が来はじめた。
 それを見てまたも大泣きをする幸福を満喫した。























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