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聖ヨハネが仕掛けた謎   福音書は推理小説だった? ポップでカルトな宗教ミステリー。
目 次
序章  福音書の謎、あるいは仔羊と狼
「イエス・キリストの受難と復活」を演出したのは、イスカリオテのユダだった。
第一章   彼とあたしの個人的事情
 あたしは高校二年の夏休みが始まってすぐ、模擬試験を受けにゆく途中の駅の階段を転がりおちて救急車で運ばれ、そのまま入院した。
第二章  奇蹟の舞台裏
「だけど、ヘロデとピラトが黒幕だとしたら、もはや何でもありという感じではないですか?」
第三章  穢れの祭司
「彼の場合、徴税人や罪人は哀れむべきもの、癒すべきものでしかなくて、『裸のつきあい』のできる対象ではなかったわけ。逆にヨハネ・アンデレ・フィリポ・ナタナエルの四人はおそらく『ヨルダン川の向こう側のベタニア』で病人の血と膿と排泄物にまみれて修行してきたから、そういうのは抵抗がないというより、むしろ面白がってるところがある」

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Copyright (C) 2007 明窓出版, All rights reserved













 
         救世義也 著





 ふたりで聖書を


 聖ヨハネが仕掛けた謎 福音書は推理小説だった?




                                   明窓出版



















   推薦の言葉
●●●●●推薦の言葉の中身●●●●●

































  まえがき

●●●●●まえがきの中身●●●●●

























       目 次


序章  福音書の謎、あるいは仔羊と狼
「イエス・キリストの受難と復活」を演出したのは、イスカリオテのユダだった。

第一章   彼とあたしの個人的事情
 あたしは高校二年の夏休みが始まってすぐ、模擬試験を受けにゆく途中の駅の階段を転がりおちて救急車で運ばれ、そのまま入院した。

第二章  奇蹟の舞台裏
「だけど、ヘロデとピラトが黒幕だとしたら、もはや何でもありという感じではないですか?」
「もはや何でもありです。イエスが生きてたからって驚くこたぁない」

第三章  穢れの祭司
「彼の場合、徴税人や罪人は哀れむべきもの、癒すべきものでしかなくて、『裸のつきあい』のできる対象ではなかったわけ。逆にヨハネ・アンデレ・フィリポ・ナタナエルの四人はおそらく『ヨルダン川の向こう側のベタニア』で病人の血と膿と排泄物にまみれて修行してきたから、そういうのは抵抗がないというより、むしろ面白がってるところがある」


第四章  ナザレのイエスとベタニアのマリア
「どうも、いかんです。イエス先生の自殺の動機がわからない」
「まだ考えてたんですか?」

第五章  救世主の憂鬱な性生活
 ラブホテル前の路上で聖書を広げるおぢさんと女子高校生の不審なカップル。

第六章  悪魔はそこにいる
「それからですね、例のイエス先生の動機の件、あの謎が解けたような気がするんでね、それの話でもしようかと。あんまり気晴らしになるような明るい話題でなくて恐縮ですけど」

終章   ありがちなエンディング
「医者が首を捻ってたよ。これがその槍だ」。若い兵士が槍の穂先をベッドのユダの鼻先に突出す。「種も仕掛もないローマ軍の正式装備だ。で、こいつの穂先が根元までしっかり刺さって、手応えも確かにあったと止めを刺した奴は言ってる」
「じゃあ、なぜ……」
「わからんね。俺も脇腹の傷は見たが、確かに槍傷に見えた。これで刺したのなら助かるわけがない。皆目見当がつかない」


























  すると、イエスは言われた。
 「あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。
  ところが、その中の一人は悪魔だ。」

                ──ヨハネによる福音書 第六章七十節







  序章 福音書の謎、あるいは仔羊と狼


「イエス・キリストの受難と復活」を演出したのは、イスカリオテのユダだった。

 イスカリオテのユダは、イエスの身代りとなって十字架につけられた。
 処刑の翌々日の午後、二人の男がエルサレムの二十キロメートルほど西にあるエマオという土地に向っていた。その二人に一人の男が近づいて話しかけ、議論しながらエマオまで同行した。じつは、その話しかけてきた男こそ死んだはずのイエスだったのである(ルカ・24:13─35)。したがって、十字架上の人物はイエスではない。なぜなら磔にされていたのがイエスだとしたら、こんなに早く体力が回復するとは思えないからだ。そしてイエスの身代わりになりそうな人物、たとえば十二使徒の中で、処刑の日以降姿を消している人物は、ユダ一人である(使徒・1:13)。

 もちろん、ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスとユダヤ総督ポンティオ・ピラトもこの件に荷担している。薔薇色の衣、荊の冠、葦の杖(マタイ・27:27─31、マルコ・15:16─20、ルカ・23:11、ヨハネ・19:2)という王の装束を与えられ、兵士たちに「ユダヤ人の王、万歳」と恤諮J揩ウれて送りだされた人物、これがイエスと入替ったイスカリオテのユダなのである。この入替りには、福音書に登場する「もう一人のマリア」(マタイ・27:61および28:1)が、深くかかわっている。

『ヨハネによる福音書』には、聖ヨハネによって一つの仕掛がほどこされている。『マタイによる福音書』『マルコによる福音書』『ルカによる福音書』『使徒言行録』。じつはこの四つの書に『ヨハネによる福音書』を付けくわえることで、キリスト教の聖典である福音書は本格推理小説になってしまうのである。

 ……といったようなことを書いたのが、あたしたちの本だったりする。


 あたしと納屋さんは、半年ほど前に「イエス・キリスト」名義で『消された聖母 ─ 「ヨハネによる福音書」の謎』という題名の一冊の本を出した。あたしたちが福音書を本格的に読みはじめたのがほぼ一年前だから、けっこう無謀である。

 著者名が「イエス・キリスト」そのままでは、あまりに挑戦的である。だから表紙にある著者名は、「救世義也」。上に「くせ よしや」、下に怩iOSHYA XET揩ニ振ってある。
「救世」は、もちろん「救世主」と訳されるギリシャ語の「キリスト」、あるいはヘブライ語の「メシア」(どちらも「油を注がれた者」の意)に引っ掛けてある。
「義也」は、「彼はまことに義の人であった」という、「ルカによる福音書」のキリストが処刑される場面で百人隊長ロンギノスが呟いた言葉から取っている。「義」というのはロゴスに従うことをよしとする精神であり、「義の人」というのは「叡智(ソフィア)を愛する人」、すなわち哲学者(フィロソファー)に近い意味の言葉だとあたしたちは考えている。だからこの百人隊長が意識していたのは、「神の子・救世主イエス」ではなくて、「悪法も法なり」という言葉を残して毒杯をあおったソクラテスかもしれない。それはイエス先生自身が、過酷な運命をしばしば「杯」にたとえていることとも結びつきそうな気がする。
  日本人が普通に使っている「イエス」という呼び方はギリシャ語からの音訳である。これに対して「ヨシュア」はヘブライ語からの音訳である。
 怩wenon揩ヘ「クセノン」と発音するし、怩wE揩ェ「クセー」と流れてしまわないように
Tはサイレントというつもりで、怩wET揩ニ書いて「くせ」。Xは喉の奥から出る「カ」と「ハ」の中間くらいの音に対応し、「クリスマス」を弭 mas揩ニ表記するのと同様にX・R・Sの音を当てることも慣例的に行われている。したがって怩wt揩ニ書けば、これだけで「クリスト」とか「ハリスト」と読んで、キリストの意味になる。

 怩iOSHYA XRSET掾B正確には、怩iOSHUA XRIST掾Bこういう仕掛になっている。

 ……で、その本はどういう本かというと、公開情報分析の手法を使って四つの福音書の内容を比較分析し、そこから読みとれる内容を解説したものだったりする。
 具体的な内容としては、たとえば「イエス・キリストの復活」を否定してしまったりとか、「怩p文書揄シ説」で有名なバーネット・ストリーターの説を否定してしまったりとか、通説では漁師であると言われているゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟がじつは祭司だったとか、復活したイエス・キリストが最初に現れたのはマグダラのマリアでなくてベタニアのマリアの前にだったとか、ペトロを中心とする弟子たちが「イエス・キリストの復活」をでっちあげようとしたんだけど二人の弟子が生きているイエス先生をエマオに向う途上で目撃していたため破綻しちゃったとか、そういった感じである。

 自分の文章を引用するというのは気がひけるのだけど、冒頭のところだけちょっと引用してみたい。


序章

「消されたマリア」の謎

1.「もう一人のマリア」

  *『マタイによる福音書』の「もう一人のマリア」
 新約聖書の中の『マタイによる福音書』には、「もう一人のマリア」という謎の女性が登場します。
 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。
 この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは渡すようにと命じた。ヨセフはイエスの遺体を受取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入口には大きな石を転がしておいて立ち去った。
 マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。
(マタイによる福音書・27:57─61)

 さて、安息日が終わって、週の始めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』。確かに、あなたがたに伝えました」
 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
 イエスは言われた。「怖れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会うことになる。」
(マタイによる福音書・28:1─10)

 この墓の蓋になっている石というのは、石の円盤です。つまり丸い蓋が、横に転がるのです。このような形式の墓を、転石墳墓といいます。人が何人も立って入れるような一種の石室で、むしろ納骨堂と言っていいでしょう。

 不可解なのは、この「もう一人のマリア」という表現です。
『マタイ』以外の福音書の記述から、墓に向った「婦人たち」はこの「二人のマリア」だけではないことが分かっています。ですから、もし「マグダラのマリア」の存在を強調したいのなら単に「マグダラのマリア」とか、あるいは正確を期して「マグダラのマリアと他の婦人たち」とか書いておけばいいはずです。ところが、実際に書かれているのは「マグダラのマリアともう一人のマリア」です。

 何か不自然ではないでしょうか。書きたいのに書けないのか。書きたくないのに書かざるをえないのか。なんとなく、奥歯にもののはさまったような表現だとは思いませんか?

  *『マルコによる福音書』『ルカによる福音書』との比較
『マルコによる福音書』では、復活したイエスに会った女性として名前を挙げられているのは、マグダラのマリアだけです。

 イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。
 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
(マルコによる福音書・16:9─11)

 ところが、『マルコ』のこの部分の直前に、またしても不可解な記述があります。「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された」と書いておきながら、その直前の部分を読んだかぎりにおいては、「マグダラのマリアは復活したイエスに会うことができなかった」と判断せざるを得ないのです。

   安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くた
  めに香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、
  「だれが墓の入口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
   ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
  墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚い
  た。

 あ、ゴメンナサイ。立ち読み部分はここで終わりなんです。ここまで読んで下さって有りがとうございます。
 このあともっと面白くなりますから買っていただけるとすごく嬉しいです。 


















 あとがき

 ●●●●●あとがきの中身●●●●●
























 著者プロフィール

●●●●●著者プロフィールの中身●●●●●





















本の誕生秘話

 ●●●●●本の誕生秘話の中身●●●●●























関連書籍の紹介

 ●●●●●関連書籍の紹介の中身●●●●●























読者感想文
みなさんからの素敵な感想文をお待ちしております。  編集部  
書き込みは
こちらからお願いします。
   聖書、仏典、推理物には興味のない私でしたが、主人公2人のラブストーリーにひきつけられてなんとか最後まで読み通すことが出来ました。
  納屋さんと好美ちゃんはイエスキリストとベタニアのマリアを映像しているのですね。納屋さんは病気直しもできるし必要とあれば好美ちゃんを抱くこともできる。しかも上手。すてきなキャラクターですね。私もポーッとしてしまいました。聖書の謎解きは私にはちょっと難解だったけれど、イエスは実は処刑されなかったというハッピーエンドは斬新で大胆な推理で、しかも好美ちゃんと納屋さんのハッピーエンドと重なり、ステキな結末でした。
  私個人としては、イエスはやはり処刑されたのだと思います。なぜなら神は性悪で無慈悲で残酷だと思うので。アダムとイブもカイニも楽園を追放されてしまいました。神は愛する者を試し最後に裏切る存在だと思うのです。りんごも蛇も神の作りたもうたものであり、全て神の手の内にあるというのに。イエスキリスト像は非常に具体的に書かれていましたが、神の存在が欠けていたような気がします。次作楽しみにしております。   (福島県 M)