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麻布の街の緑の濃さについて、かって父は子にこう語ったことがある。 「そりゃおまえ当たり前だ。麻布ってのは一つの立派な山なんだ。幾つもの山道が 頂上を目指して、頂きには神社だってある。そりゃてえした山なんだぜ」 貴顕の集う街。昭和三十年代の麻布に生まれた貧しい一人の少年 の孤独な魂。 東京麻布の街を背景に、父子家庭の少年が、戦後の復興の中、多感な時期を過ごす 成長期を、生き生きと描く。当時の風物や時代背景が郷愁を誘う、質の高い純文学。
推薦の言葉 ●●●●●推薦の言葉の中身●●●●● まえがき ●●●●●まえがきの中身●●●●● ◎ 麻布の少年 目 次 ◎ 一 章 麻布山 ……………… 5 二 章 貴顕の街 ……………… 14 三 章 慄く春 ……………… 22 四 章 池畔にて ……………… 37 五 章 堀田屋敷 ……………… 64 六 章 下 山 ……………… 80 七 章 麻布材木町 ……………… 102 八 章 蝉時雨 ……………… 132 九 章 夕映え ……………… 149 十 章 淵瀬絶えなく ……………… 172 十一章 それぞれの想念 ……………… 197 十二章 手向けの花 ……………… 215 十三章 木枯らし ……………… 239 一章 麻布山 麻布の街の緑の濃さについて、かって父は子にこう語ったことがある。 「そりゃおまえ当たり前だ。麻布ってのは一つの立派な山なんだ。幾つもの山道が頂上を目指して、頂きには神社だってある。そりゃてえした山なんだぜ」 山脇文太の父親は、江戸前の大工で建具師としての腕もあったが、恐ろしく無口で無愛想であったから、唯一人の家族である文太にも、ついぞ多くの言葉を用いて語りかけることなぞなかった。なので文太はこの、たぶん五―六歳の頃に聞いた父親の言葉を、残らず記憶していた。 物心ついた時から、いや、多分生まれてすぐの時分から文太には母親が居なかった。父子の二人だけの日常のなかで、父親から語り残された数える程しかない中のこの言葉の風景を、文太はずっと実感しようとしてきた。 初めは、生家からも近い善福寺という境内の広い寺のことを人々が麻布山と呼んでいたので、そのことかと考えてみたが、どうやら違うようであった。 父の辰七はどうやら、麻布という街そのものが一つの山だと言っていたことに文太が気づいたのは、辰七が亡くなる少し前の、小学校も終わりに差しかかった頃であった。 というのも、文太が小学校の高学年に差し掛かる頃に、豊沢という、渋谷区になる隣町に引越しをして、麻布を少しだけ離れて見るようになったことと、それ迄、父子二人だけの余りに狭い世界での生活から、転校も経験し、新しい担任とも出合ったことで僅かでも視野が広がったのである。 麻布は確かに武蔵野台地の東端の一角とも言うべき一つの山で、武蔵野を髣髴させる古木、大木が多く残り、登りきると頂上は馬の背の様な台形状になっている。 そして周辺の街から麻布の中央の馬の背を目指すには、幾つもに放射している坂道のいずれか、すなわち白金から入るには薬園坂、三田からは仙台坂、六本木からは暗闇坂や大黒坂、そして広尾方面からは北条坂や南部坂といった、登り切った台地上で大まかに合流する坂道を辿ることとなり、辰七の言うところの幾つもある山道とは、そうした麻布の山上から隣町と結ぶ為に放射された幾条もの坂道のことであった。 文太の生まれた界隈も、この麻布の山上の台地上にあった。 都心の一角を占めながら、東都麻布の山の地形の玄妙さは比類が無い。 山と言ってもせいぜい標高三〇メートル程の山なのであるが、坂道を登り切った山上台地からは更に高い大隅山と呼ばれる突起が、ひどく大袈裟に比喩すればカルデラ山のように隆起し、その麓にはガマ池と呼ばれる、都心の池とはとても思えぬ程堂々とした、広い池畔を持つ沼が、カルデラ湖のように幽玄にたたずんでいた。 巨大な女王のような鯉が悠々と遊弋する瓢箪型のその沼には、中の島もあり紅い橋まで掛かっていて岸辺とつないでいた。 梅雨の時分には水草の浅沙の花や、蓴の花も咲いて岸辺からも採れた。この蓴の花の若葉と葉柄の部分を「蓴菜」といい、文太も幾度か父親とこれを食べて、そのぬらぬらとした涼味を味わった。 そして夕立の後には、細い光線のような糸トンボがどこからともなく現れてみるみる数を増し、可憐な飛行を見せると、夕暮れの池の畔には青白い光の幕がかかったように見えた。 沼の名の由来となった大ガマの伝承は、一朝火事のときには、沼の水のあらかたを腹に含んで沼を這い出て、大口から沼水を吐きかけ、麻布中を火災から守ってきたのだというものであった。 あたりには大名屋敷が多い。当時の大名屋敷や大旗本の屋敷は、火災が頻繁であった。大名屋敷同士の類焼を避けるため、その間の町屋などは、容赦なく火消により火事場の急としてとりこわされた。 江戸の文政期から伝わると言うこの大ガマの伝説には、大名屋敷の間隙をぬうように、ひっそりと存在した麻布の町屋の人々の、火事からの息災の祈りがこめられていた。 また指呼の間には、永く麻布の総鎮守府としての信仰をあつめてきた氷川神社が、人々の営みを見守ってきた。 麻布の街に住まう人々は、この深い緑蔭のなかで、独特の穏やかな人気を育み時を重ねてきた。 元々江戸期には、大名家の郊外保養施設として設けられた下屋敷の集まる街だったのである。 その他寺院の多い街でもあった。街を縦横する多くの坂の名も、この地に大自然を模した、宏大な庭園を営んだ大名家の名に由来するものが多かった。 幕末明治に至り、寺社の多くは外国公使館に転用され、それが今日の外国大使館の街としての、また多くの外国人の住まう街としての麻布の原形となった。 旧大名屋敷の跡には新興の実業家や華族が入り、ために豊かな緑が失われることなく、麻布が都心の緑野であり続けた所以となった。 麻布の山上の幽玄なガマ池をカルデラ湖に喩えるなら、池の周りの台地には、幾つものすり鉢の底の様な窪みがあった。それらの窪みには、だが水はたまらず、江戸期からの伝統を伝える町屋となっており、その内の一つが文太の生まれ育ったところだった。 東京の夜景を遥か高みより鳥瞰すれば、妖しい蠱惑に満ちた光線を放ち続ける六本木の片脇で、麻布の街に連なる光の数珠は、穏やかで安らぎに満ちた華やぎを湛えて見えるに違ない。 但し、文太の生まれた周りは、山頂に有りながら半ば地中に埋もれ、そこだけは籠ったような鈍色の光にくすんで見えたかもしれない。 そんな麻布の街の一隅で、文太は昭和二十五年に生まれたのだった。 辰七は大工だった。自分の仕事について子に多くを語らなかったのは、生来の無口だけが原因では無かった筈で、文太の母親とのことが、何らかの影を落しているのに違いなかった。 しかし、母親のことも自分の仕事のことも、子にとっては極めて重要な関心事のはずであり、父としては、子が人間として成長して行く過程で避けてはならない範疇の話であった。 辰七はそうしたことに思いが至らぬほど情理の欠如してしまった人間とも思えなかったが、酒に沈溺しただけでなく、文太の母とのことがからんでいるに違いはなかった。何れにせよ、その間のこの父親の心情は容易には測りづらい。 辰七は宮大工として、主に渋谷、青山辺りの、神社仏閣の修理現場などに出向いていた。 生まれた場所についても子に語ることはなかったが、恐らくこの麻布、六本木の界隈だろうと、これは文太にもやがて予想がついた。何故なら、辰七の唯一の愉しみといえば酒であり、少しでも持ち合わせがあると、屋台や立ち飲みの酒屋を梯子して歩いたが、行き付けの店は決まってそうした界隈にあった。 自分のこと以上に語らなかったのは、文太の母についてであった。従い文太の幼年期は、母の面影を追い、消息に思いを馳せることに費やされた。 父子の家は、麻布の台地上の小さな家が密集する中の小さな借家の二階であったが、幼い文太はその家主の初老の婦人や、近所の人達に、母の消息を飽くこと無く尋ねた。 曖昧にただ首をふり目を伏せる隣人達の眼差しからは、当惑と慈しみが返ってくるのみで、やがて小学生に成った頃には、尋ねることこそ止めたが、無論のこと母親を諦め切れるものではなかった。 文太にとって唯一の母の記憶と言えば、授乳の時母の乳首を噛んだことだった。大袈裟に痛がり、授乳を中断して立ち去ろうとする母に、慌てて泣きながら許しを乞う自分が、脳裡の記憶の像に朧気に揺れているのだが、果たしてそれが現の記憶なのか、夢の中の残像の紙片なのかはわからなかった。 但自分が母の乳首を噛んで痛がらせたから母は自分の元を去っていったのだ。つまるところ母親がいないのは自分のせいなのだと、自分で自分を納得させようとしていたのだった。 古い借家の借間の、陋とした六畳で、毎夜酒気を帯びて帰る辰七は、帰宅後もつくねんと二級酒の壜を抱えている。 辰七が帰宅の途中で買ってくる、出来合いの惣菜の簡単な夕食は瞬く間にすみ、それから寝付くまで、文太の空しく長い寂寥は続くのである。 それでも父と子の暮らしに団欒の時が無かった訳ではない。文太が小学生のある時期までは、ささやかな父子の語らいはあったのである。 辰七は銭湯が好きだった。仕事に行けぬ雨の日などは昼間の内から、麻布十番や六本木に近い竜土町や広尾、時には白金三光町のあたりまで出張っては長い時間を掛けて入浴を楽しんだ。 麻布十番の「越の湯」にいくと湯が飴色に黒黒としていて、これは温泉≠ニいって地面から湧いて出てくるのだと、父は子に自慢気に解説してみせた。 銭湯での辰七は、文太の目にものびのびと寛いでいるように見え、文太の身体も丹念に洗ってやるのだった。 また入浴時の公衆の作法なども、そこだけは、いたって念入りに文太に伝授しようとした。 文太が幼い頃までは、辰七はポツリポツリとは、この自分以外に身寄りの無い子に、この世で生きていくための術を語り掛けようとはしていたのだ。 その頃には文太は、大人としては小柄な辰七の影を踏むように、よく街を歩いた。渋谷や青山辺りの仕事場から、辰七は都電で広尾まで帰ってくる。文太はそれを毎日のように、広尾や天現寺橋の電停まで迎えに行くのだった。小学校に入学する前から、多分3〜4歳の頃からそれが文太の日課となっていた。 現場の作業の進捗の具合で、時には都電を使わず渋谷や青山辺りから歩いて帰ってきたりもしたから、文太は随分と待たされることもあった。それでも文太はじっと明治通りに面した道端に座り込んで、辰七の帰りをいつまでも待った。 「おめえは、忠犬ハチ公のようだな」と遅れてきた父はそう言って頭をなでてくれた。それから広尾の商店街の酒屋か屋台で辰七は酒を飲むのだった。 文太も隣で大きなちくわぶを頬張りながら、辰七の体に酒精が満ちてくるのを待った。 日によってはハムカツという文太の好物を、買い食いさせてくれることもあった。そういう日は、 「ソースをたっぷり塗ってやってくれ」 と辰七が店員に言ってくれるのだった。 夕暮れ近くになって、ようやく只一人の肉親である辰七とまた一緒に戻れ、文太の昼間の孤独は、忽ち癒されていくのであった。 いや、しかし完全に癒されるはずもない。辰七の酒が終わり、父子が夕闇の迫った商店街を再び歩き出したとき、家路に向かう広尾橋の交差点から、一人の婦人が此方に小走りに駆け抜けて、視界を横切ろうとするさまを、幼い文太は幾度も目撃したのだ。 その婦人は決まって一重の着物を着て、大きめの和装のバッグを携えて文太の方に走ってくる。その顔立ちを判然と捉えることはできないが、面窶れした色白な頬を上気させ文太の方に駆け寄ってくるのだ。 幼い文太は、やはり母が自分達を迎えに商店街まで来てくれたのだと思うのである。 夢の中での意識が、昼間の世界とは違う有様を、現実とは違うと気づきながら瞬く間に受け入れてしまうように、やはり自分にも母が居たのだという興奮が突き上げてくる。 その一瞬のなかで、歓喜は忽ち焦りに変わる。この恍惚を現実として動かしがたいものにするために、母の面立ちを何としても見定めておかなければならない。 そう思って視界を横切る婦人を凝視しようとすると、婦人は忽ち足早に聖心女子大に抜ける日陰の小路に逃げるように駆け抜けてしまう……。 追う文太の、婦人の面立ちを捉える刹那の眸子に残ったのは、逢魔が時に差し入る前の、最後の日の光を浴びた漆黒の髪と、その下の一際白い項と顔である。 ところが次の瞬間脇道に逃げ入った婦人の顔には忽ち夕闇が落ちて目鼻を隠してしまう。その急転の闇の深さは、やはり母の死の影だったのだろうか。 あ、ゴメンナサイ。立ち読み部分はここで終わりなんです。ここまで読んで下さって有りがとうございます。 このあともっと面白くなりますから買っていただけるとすごく嬉しいです。 あとがき ●●●●●あとがきの中身●●●●● 著者プロフィール 暗闇坂 瞬(くらやみざか しゅん) 東京都出身。米国ニューヨーク大学大学院卒。 歴史考証家。 本の誕生秘話 ●●●●●本の誕生秘話の中身●●●●● 関連書籍の紹介 ●●●●●関連書籍の紹介の中身●●●●● 読者感想文 みなさんからの素敵な感想文をお待ちしております。 編集部 書き込みはこちらからお願いします 小生も昭和20年〜30年代を麻布で過ごしたので、なつかしく読ませていただきました。山の手と下町がミックスした麻布が良く描かれています。第二部を期待します。 (横浜市 K)