まえがき
まえがき
南米大陸で最大の面積を持つブラジルと聞けば、誰しもが大アマゾン川にピラニヤ、鰐にオンサと呼ばれる黒ヒョウ、大蛇アナコンダを頭に描いて眉をひそめる。
だが一方で「面白そうな場所ですね、一度行ってみたい……」とおっしゃる冒険心に溢れる人々も決して少なくない。
そもそも、このブラジル程謎に富んだ国も他にはないだろう。大げさな表現が許されるなら、我々北半球に住む人間にとっては、まさに別次元世界だとも言える。
何が別次元なのかと言えば、まず一つの国でありながら北のアマゾン流域の熱帯雨林のジャングル地域から西のパンタナールの大湿原地帯、有名なナイヤガラの滝を100個も集めたようなパラグアイ、アルジェンチンの国境に大地を揺るがして落ちるイグアスの大瀑布に、大アマゾン川のどまん中を数メートルの高さに隆起して流れる潮流等とここで見られる現象は途方もなく大きく、北半球には無いからだ。

もちろんブラジレーロと呼ぶブラジル人が住み、我々北半球の人間と同様に生活を営んでいるが、彼等や彼女達の奔放な、また底抜けに明るい生活に面食らうことも少なくない。
その代表が、リオで毎年春に開かれるサンバのリズムに躍り狂う彼等の姿に代表されよう。その明るさは人種、膚の色を超越して白や黒、黄色も混然と溶け合いながら今のブラジル人を構成している。
後略
目 次
サン・ビセンテ ………………………… 10
天国から一番遠い所 ………………………… 33
この大地に夢を……? ………………………… 60
サウーバの森 ………………………… 93
蛍の里 ………………………… 130
ノロエステ線 ………………………… 171
オンサの夜 ………………………… 189
ガリンペーロの詩 ………………………… 226
アマゾンの伝説 ………………………… 241
サン・ビセンテ
【前 略】
人並みに浦部も結婚をして家庭を持った事があった。オクラホマの片田舎にある町の写真屋のブロンド娘は優しかった。南部独特のゆっくりした言葉使いは彼女の動作にも合って燃えるのも遅い。大柄、豊満な体で燃え尽きる彼女は、まるで塩を浴びたナメクジのように汗に濡れ、ニッと恥ずかしそうにピンクの歯茎で笑いながら慌てて引き上げたシーツで体を被う娘だった。
その妻も浦部の血を満足させる事はできなかった。離婚は、全ての財産を彼女に与えるという条件で簡単に成立し、浦部が再び独身の自由を取り戻して二昔が過ぎていった。
浦部は中米、南米の戦場を歩き、疲れた体をアメリカの家で癒す。この間にも女の出入りは盛んに続いた。小柄とは言いながら、恐れを知らない不屈の容貌と鍛え上げた男の体は女の本能をくすぐるものなのだろう。
コンクリートの道路の先がゆらゆら陽炎に揺れている。
振り返ると浦部が旅装を解いた椰子の樹に囲まれたポサダが目にはいる。ポサダとはホテルの一種で、無理をして日本語に直せば民宿となる。浜辺にあるそのポサダの料金はヘアールというブラジル・ドルにすると五〇ドルだ。二〇〇〇年五月の換算レートが米ドル1に対してブラジル・ドルが2・5だからネットはたったの二〇ドルで朝食付きだから悪くない。
安いとは言え、一月の収入が一〇〇ドル前後の現地の人にとっては滅多に利用できる場所ではなく明らかに観光者用だ。その観光客もシーズン・オフの今では姿はなく、泊まり客は浦部一人のようだった。ポサダの前に止めた浦部のレンタカーの窓が南国の太陽に光の虹を作っていた。
遊歩道を歩く浦部の前の少女がしきりに何か叫んでいる。
?……と辺りを見回しても人影はまばらで黒い影を落としているのは自分だけだ。
一〇代の半ば頃の少女は歩道の中程に立ちはだかり浦部を待っている。
身長は一七〇センチ弱の少女は細い体を赤いブラウスとブルーのショーツに包み、しきりに何か訴えている。距離が縮まると、真ん中から左右に亜麻色の髪を分け、後ろに束ねた大変な美少女だと分かった。大きな黒い瞳に短い鼻梁、頬にうっすら紅をさした笑顔が白い歯を見せていた。
少女の言葉はドイツ語だった。それが通じないと分かると今度は英語に切り替えた。
「ボート、サイトシーイング、ビューティフル、チープ」知っている英語が尽きたのか、少女は黙って脚をよじり、手を後ろで組んで笑っている。
少女の笑顔に釣られて浦部も笑顔を返した。
「クワント・クスタ?」幾らだね、とウロ覚えのポルトガル語が浦部の口をついて出た。
その途端に少女の口から堰を切ったようにポルトガル語が流れ出す。
「普通なら六〇だけど、アンタなら五〇にする。奇麗な景色はここからは見えない。みんな島の後ろにあるんだよ」
「そうかい、それでボートはどこにあるんだ?」
「こっち、こっちだよ」少女はさっさと歩き出した。ブルーのショーツの下に素直に伸びた長い脚にようやく女が匂い始めている。

ドビッシーだったろうか? 亜麻色の髪の少女は……ふと浦部は頭の中に旋律を捜し始めた。
「あそこだよ、ほら……」少女の指の先、村から海に注ぐ川口の入江に日本のチョキ船に似た船が波に揺れ、カモメが艫に人待ち顔で止まっている。
ペイントのはげ落ちた船体は元の色が白か赤だったのか分からない。十人前後の乗客が乗れる船の天蓋の上はデッキになっていて安物のアルミ製のビーチ・チェアーが二つ並んでいる。
「これかい?」浦部がステッキで船をさした。
「そうだよ」少女はためらいを見せる浦部に向かうと「ねえ、四〇ヘアールにしておくよ。一緒に島を見にいこうよ」と体を擦り寄せてきた。
頷いた浦部に少女はぱっと顔を輝かせ「パパイを呼んで来る!」と一度走り出してからまた駆け戻ってくると「本当に待ってるんだよ」と叫び、浦部のステッキを引ったくると風のように走り出し、カモメがしきりに鳴き始めた。
パウロという少女の父親は浦部よりも老けて見える。この男は少女の父親というよりも祖父の感じであり、また少女の肌の白さに比べてパウロの髪の毛や肌にアフリカがあって奇妙だった。
舳先に立った少女は長い脚で船着き場の縁を蹴り、手品師のようにロープを手繰る。
艫のパウロは腰を屈めてスターターのハンドルを掴み、勢いをつけて巻き上げる。そんな事を二、三度繰り返した後でディーゼルが一度黒い煙を吐いて動き出した。
少女が乱暴に舳先に放り出した錨から滴った水の溜まりに群青のブラジルの空が写った。
トクントクントクンとエンジンが唸り、ボロ船は針路を真東に向けて湖のように静かな海原を進みだした。カモメがしきりに後を追って来る。
〔へーえ、これが大西洋か。なんと静かな海なんだろう。マゼランは太平洋とこの海を取り違えたのではないだろうか……〕
振り返ると少女は艫に仁王立ちになって舵輪を掴んでいる。風に任せた亜麻色の髪の毛の回りが太陽に金色に光っていた。目が合うと口元をほころばせ、女の目で笑いかけて来る。

船の後ろの海が泡立っている。よく見ると無数の飛魚がタッチ・アンド・ゴーを繰り返しながら追いかけて来る。中には慌て者の飛魚もいるらしく船の中に飛び込んでしきりに跳ねまわる。〔しょうがないね……〕と言った素振りの少女が舵輪をパウロに委せると魚を拾っては海に投げ返している。
右手の島に人家があり、洗濯物が風に翻っていた。知人でもいるのか、パウロも少女も人家に向かって手を振っていた。島を右手にすり抜けると大小様々な島影が姿を見せ、浦部は夢中でカメラのシャッターを落としていた。
振り返る浦部の目に横たわるサン・ビセンテの村の全貌が飛び込む。その後ろは直ぐに黒ずんだジャングルの樹海が広がっている。そんなジャングルの中に立つ、背の高いノッポの椰子の樹だけが、さもきまり悪そうに風に身を揉んでいる。
空の色は、これまで浦部が目にしたどこのものでもない群青に輝き、そんな中、浜の礼拝堂の屋根に立つ金色の十字架が鋭く光ると、キリスト教徒でもない浦部の胸に宗教的な感動が湧く。
ブラジルの発見者、カブラールがこの辺りを天国に最も近い場所と呼んだ意味が痛い程分かると同時に、初めて、ブラジルにやって来て良かったという感慨が生まれる。
実のところ浦部にブラジルを訪れる明確な目的はなく、どこでも良かったのだ。
来る気になったのは知人の勧めもあったが、それ以上に浦部は自分の人生に限界と疲れを感じていた。戦いしか知らない兵士に戦場を失う事は羽をもがれた野鳥のように惨めだった。こんな状況下では、一向に衰えを知らない溢れる体力や気力は、むしろ浦部を苛むものとなり、そんな中、かすかな慰めは数年前から始めた写真の撮影と読書だけになっていた。
このまま黙って朽ち果てていくのだろうか? そんな事を考える時間が多くなると、心のどこかに第二の人生を探してみたい欲望も生まれていた。漠然と……
まず最初に訪れたリオやサンパウロの都会の無秩序の喧騒も、そこで出会う人間にも失望した浦部はサンパウロの衛生都市の一つ、クルセダスという日系人が多く住む町のホテルの部屋を仮の住まいとしていたのだ。
点々と浮かぶ島の一つ一つに丁寧に船を近付け、浦部がカメラを構えると速度を遅くしてくれる心遣いが嬉しい。
いつの間にか少女が浦部と堅いベンチに並んで座り、時折浦部の横顔を覗いている。目が合うと慌てて視線を逸らす少女に浦部の心は温もりを感じていた。
「お尻痛いだろ?」少女は笑うと浦部の返事を待たずに舟の舷側に括りつけた救命ジャケットをベンチに広げて自分が座り、余った部分に浦部を招いた。
どの島にも灌木が青々と茂ってジャングルになっている。平たい島はなく、どの島もお碗を伏せたように中央が高く、その頂上の辺りには野鳥が舞っている。
トクントクントクン、単調なエンジンの響きは眠りを誘い、後ろへ後ろへと流れる海面に浦部は心の中に溜った人生の垢が流れていくような爽快感に酔っていた。
「ねえ、そのタバコおいしいの?」隣の少女が浦部の顔を見上げている。並んだ背丈は浦部とどっこいどっこいだが腰を下ろすと頭一つ低い。座高が低いのだ。
「ああ、旨いねえ」浦部は思い出したように振り向くと、パオロにダンヒルの赤い箱とライターを一つ一つ投げて渡した。
「ムイト・オブリガド!」有り難う……と投げ返すパオロの声に誘われたように少女の手が浦部の膝に乗せられた。
「……?」
「ねえ、あんたの名前は?」少女が首を傾げて浦部の目を覗いている。
「エンゾウだ。エンゾウ・ウラベだ」
「オイオイ、アンタはイタリア人?」
「違うね。俺はジャポネスだ。ところで君のノーメ(名前)は?」浦部は膝にかけた少女の細い手を取った。すかさず少女が指を搦める。
「プリセラ! プリセラ・ベレンスタイン」
「ベレンスタイン? ドイツ人かい?」今度は浦部が少女の顔をのぞき込んだ。
「さあ……なんだろう? でも間違いなくブラジレーラだよ」少女は明るく笑った。
色々な人種の住むブラジルだから、どんな名前があっても不思議ではない。考えてみればホテルのフロント係のモレーナ(黒人の混血)はヤマザキという日本の名前だった。
「エンゾ」プリセラが浦部に声をかけ、目が合うと視線を反らせて言葉を続けた。
「?」
「エンゾはセニョーラが居るの?」
「居ないが……何故だい?」
「よかったあ! それならブリセラがセニョーラになって上げるよ」言うなり少女は立ち上がると浦部の首を抱いてキスを頬に送って来た。慌てた浦部が後ろを振り向くとパウロはニコニコとさも旨そうにダンヒルを楽しみ、島が近づいた。
巨大な岩の陰に自然に造った船着き場がある。少し手前でエンジンを止めると静かに船は滑るように岩陰に吸い込まれ、軽いショックが伝わって船は止まった。
舷側から覗く海は透明度が高く、無数のウニとカニが青白い海底に遊んでいる。
「セニョール、プリセラが案内しますから、上の展望台に行ってください。見晴らしが良いのできっと良い写真が撮れますよ」パウロは黄色い歯を見せて愛想よく笑うと自分のタバコを取り出して火をつけている。
蔦が絡み合う灌木の間に人一人がやっと抜けられる小径が曲がりくねりながら上に向かっている。前を行くプリセラの幼い尻が左右交互に揺れているのが可愛い。
「ほら、早くおいで!」最初は元気のよかった浦部も急傾斜の道に息を弾ませて遅れ勝ちになっている。鍛えた体と言っても、年齢には逆らえない。プリセラに手を引かれてやっと辿り着いた頂上はパウロの言葉の通りに絶景が広がっている。ここから見渡す海はコバルト色、そして渚の白い砂が次第に青味を帯びながら海底に伸びている。
天国に一番近いところ……か。浦部は呟きながらシャッターを押していた。
ウルブ(禿げ鷹)が不吉な黒い翼を広げて舞っている。プリセラが小石を拾っては投げつけている。

コンクリートのベンチに座って吸い込むタバコの味は格別だ。
遠くにサン・ビセンテの町が見えて浦部がカメラを構えると突然にファインダーの向こうの景色が消えた。見るとプリセラが目の前に立っている。
思い詰めた厳しい表情の少女は乱暴に三千ドルのカメラを手で押しのけると、無言で浦部の膝にまたがり、そのまま首を抱いて唇を押しつけてきた。
あ、ゴメンナサイ。立ち読み部分はここで終わりなんです。ここまで読んで下さって有りがとうございます。
このあともっと面白くなりますから買っていただけるとすごく嬉しいです。
あとがき
なし
著者プロフィール
●●●●●著者プロフィールの中身●●●●●
本の誕生秘話
知人の評論家K氏から「面白い原稿を書いた人がブラジルから来ている。紹介するから出てきませんか」と電話が入った。押っ取り刀で著者テッド・アライ氏の泊まっているホテルのロビーに駆けつけた。身体もそれほど大きくない人がK氏と座っていた。彼の話は私の想像をはるかに超えるものだった。なんせ人殺しのやり方を教えている人なのだから。
半信半疑で聞いている私の心中を察したのか、テッド・アライ氏は自室から小型シネマ一式を持ってきて彼の実践現場を写して見せてくれた。まるで映画を見ているような迫真的な場面の連続にただただ息を呑む思いだった。渡された原稿を読んでこれまた驚いた。殺しの教師とはおよそ裏腹の、冒険あり、ラブロマンスありの、まさに一大スペクタルである。テッド氏の描写力のすさまじさに「絶対にアマゾンの星を見に行くんだ!」と私は決心した。また、全体を流れるエロチシズムにも圧倒された。
本屋さんに並んでから1ヶ月以上たった頃だったろうか。いきなり日本図書館協議会から「優良図書選定」の通知がきたには度肝を抜かれた。恥ずかしながら、その文芸的価値に気づかず、ただただ極上のポルノ小説という受け取り方をしていた自分に人知れず顔が赤らむ思いをしたものだった。
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