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金印奴国による倭国統一以来、幾多の動乱の時と多くの英雄の活躍を経て、卑弥呼の登場までを通史風に描く。
全てはAD57年にはじまる。
.吉野ケ里の銅鐸が破壊されて発見されたのは?
.荒神谷銅剣は誰が造り、誰が埋納したのか?
.海幸、山幸の兄弟、須勢理命はどうなったのか?
.倭国大乱と卑弥呼の即位の年代は? そして卑弥呼は吉野ケ里北内郭にいた。
かつて「考古栄えて記紀ほろぶ」といわれたが、考古学の進歩により「記紀」が復活しそうなのである。
この本を読んだ人は次の本をお読みになっています。
「卑弥呼の孫 トヨはアマテラスだった」
「シュメールの天皇家〜陰陽歴史論より〜」
「神宮皇后は実在した〜その根拠と証明〜」 |
まえがき
BR>時は弥生、所は高天の原。
その最高神である天照大御神がかくのごとく言い放った。
「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、我が御子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の知らす国ぞ」
と言よさしたまいて天降したまひき。
この一言が日本の歴史を大きく揺り動かす事となった。それまでの日本は、クニといわれる小さな集落が集まり、部族長のような人によって統率されており、それらは部族国家といわれ小地域に割拠していた。
そうした中から、更に勢力を拡大しようとするクニが現れるようになってきた。
後略
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目次
第一章出雲の国
第一節神庭荒神谷遺跡 12
第二節出雲の国 23
出雲王朝 23古事記の中の出雲 27出雲の国譲り 31出雲大社 38
出雲風土記 45大国主命の業績 49須佐之男命 60熊野神社 63
神魂命 66記紀への挿入 68王者大国主命 72吉野ケ里の銅鐸 78
最後の晩餐 91
第二章倭面土国
第一節倭面土国と帥升 98
第二節周辺諸国 112
中国 112近畿 122瀬戸内 131出雲 140北部九州 168朝鮮 170
第三章倭面土国の滅亡
第一節滅亡と分割 178
第二節諸国の動静 193
金印奴国 193朝鮮 194瀬戸内 195近畿 196出雲 198
第三節神話との接点 207
第四章卑弥呼の登場
第一節倭国大乱 220
年代と範囲 220新王選出会議 227歴年とは 230
第二節卑弥呼の登場 234
卑弥呼の即位 234卑弥呼の出自 251卑弥呼の鬼道 253
卑弥呼は何処にいたのか 258
エピローグ 267
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当時の社会構成から考えるならば、彼女は邪馬壱国関係の王族や貴族、つまり倭人伝でいうところの大人の階層であることに間違いはないであろう。
昔ほど、家柄の善し悪しが重視され(世界共通らしい)、大人のような上層階級と下戸のような一般階級とでは、歴然とした差があり、卑しい身分から王位につくことなど決してありえないのである。邪馬壱国の支配階級の出身は大陸にある。つまり弥生人であり、土着の縄文人ではないのである。
紀元前三百年頃、弥生人は大陸から半島を通り、または半島から九州へ渡って来たところの渡来人であるという。
弥生人と縄文人は、顔の形でも識別できるほどであり、異なる種族とみられている。そして弥生人の細面が高貴な顔とされていた。
しかも容貌だけではない。弥生人は政治力組織力に優れ、軍事面や戦闘においても縄文人を凌駕していた。
その弥生人のことを倭人とも呼ぶ。そして邪馬壱国人は倭人である。よって弥生人=倭人=邪馬壱国人という等式が成り立つ。
但し私は、右の等号関係は大きくは等号であるが、細かいところでみると、かならずしも等号とはいえないと考えている。
話が脇へそれてしまいそうなので元に戻すが、卑弥呼は弥生人であり倭国内の統治国邪馬壱国人の中でも、高貴な大人の出自であることは間違いない。
奈良県のホケノヤマ古墳の発掘の時、その古墳が卑弥呼の父王の墓だとか一族の墓ではとか主張した人もいたようであるが、卑弥呼が高貴な一族の出自であることは間違いないとみてよい。ただ卑弥呼の父が王であったとは、どのような資料に基づいているのだろうか。
但し彼女は女性であり、もともとは王位継承の資格はなかったのである。
その女性である卑弥呼が共立され王位につくことになったのはどういう事情だったのであろうか。
卑弥呼の鬼道
その一つは鬼道にあったという。
倭人伝には、卑弥呼は、「鬼道に事え、能く衆を惑わす。」とある。鬼道とは、神や霊などの超常現象を用いることであり、それらをあやつることができるのは、超能力者でもある。
ただ儒教国家中国では、孔子が鬼道に惑わされてはいけないとしたことから、好感はもたれてはいないが、大衆の間では根強い人気がある。
ただ倭国で魏使のみた(?)鬼道と、中国での鬼道が同じものであったかどうかは定かではない。
神や霊に畏服する人は、それらを祭る巫女や祈祷者にも当然畏服するのであるから、彼らは人々から畏敬の念をもってみられたのである。
その中には、神や霊を操り、奇跡をおこしたり、予言できるものもいたであろう。その結果人々が驚き惑わされることとなったものであろう。
テレビ等の卑弥呼の鬼道のシーンでは、共通したように、卑弥呼は「ウーウーアーアー」とうめき声を発して喚いている光景を演じている。実際のところ、当時の鬼道のときの呪文等は知られていないのであるから、喚くだけのシーンとならざるをえないのであるが。
鬼道とは、神を祭ることでもあるので、必ずといっていいほど祈祷の対象として神があるので卑弥呼も祭壇を設けて神を祭り、その前で祈祷を行ったものと思われる。このように卑弥呼の行った鬼道とは、現代ではどのような形で残っているであろうか。
私はこれまで古代史の研究を続けて来たのであるが、現代は古代からの続きであって、古代のことが現代まったく消失してしまっているとは限らないということに気がついた。
確かに科学は進歩し、物質文明はまったく変化してしまったようなのであるが、人々の生活習慣とか、考えや行動は、特に無意識の内に行われることは、意外と変化していないことがみられる。そうした目で社会をみていくと、民俗の中に残っている慣習や習慣の中に、その残像をみつけだすことができる。特に、神社や寺の行事や祭祀の中にのこっていると思われる。
おそらく卑弥呼は霊能者であり、神がかりすることによって様々な御託宣等をおこなうことにより人々の信頼を集めていたものであろうと推察する。宗教家のように、人の道や神の愛を説いたりということはなかったと思う。あくまでも現世御利益であった。
私の郷里の青森では「イタコ」や「カミサマ」という業を営んでいる人達がいる。「イタコ」とは盲目の女性で、呪文を唱え、死者をあの世から呼び寄せ、イタコを通して死者が語るのである。しかし彼女らは霊能者ではなく、修業によってこの技を身につけたものである。その呪文等は仏教系であるが、そもそもこれらが仏教に関連しているのがおかしい。仏教では死者は生まれ変わるのであって、あの世から呼び寄せられるものではない。これらはもともと日本の風俗なのであって、それが仏教の伝来によって変革させられたものなのである。神仏混淆ということになって仏教の中に呑み込まれてしまったのである。
そもそも「イタコ」とは、アイヌ語の「イタグ(言葉)」モンゴル語の「イタガン」琉球語の「ユタ」日本語の「ウタ」に通じるもので、言葉に関連した意味を持つ。つまり言葉を伝えるものを「イタコ」と呼ぶようになったのである。
一方「カミサマ」とは、日本古来の神様のことであり、キリスト教等の神のことではない。いわゆる神霊をもって依頼者の相談にのる業をする人で、ある程度の予言もできる。
このカミサマは、生れ乍らの霊能者であって、修業によって祈祷の形を身につけている。
人々は、このカミサマの所へ行って、生活においての悩み等、様々なことについて神様に聞いて、その原因と対策を尋ねるのである。そして頼みごとがよく的中するカミサマのことを世間では、あそこのカミサマはよく当たると評判がよいのである。
私が青森にいた頃、一、二度カミサマを訪れ、その祈祷の場面をみたことがあった。
普通の家の普通の座敷に祭壇があり、供え物がたくさん置かれ、正面にご神体(仏像?)があり、その前でろうそくに灯をともし、数珠を手に巻き、そばにある太鼓をドンツクドンツクと速いテンポで討ち鳴らしながら、お経や呪文を唱えていく。ことばにはリズム感があり、その合間にひとしきり大きくリズミカルに太鼓を打ち鳴らしながら呪文を唱えていくさまは、一つの音楽ともいえた。
それが終わったあと、静かに「これこれこういうことがでました。」と言って、客の質問や頼みごとにこたえており、いろいろな指示をしたりしていた。
テレビでみるように、霊能者がバッタリ倒れたり、身悶えしてうめきながら話すということは決してなかった。おそらく卑弥呼もこのような方法で鬼道とやらを行っていたのであろう。
古今極東アジアでは、シャーマンも含め楽器を鳴らしながら
後略
あ、ゴメンナサイ。立ち読み部分はここで終わりなんです。ここまで読んで下さって有りがとうございます。
このあともっと面白くなりますから買っていただけるとすごく嬉しいです。
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著者プロフィール
1947年青森県青森市に生まれる。
1970年弘前大学教育学部卒
神奈川県相模原市立小学校教論となる
1989年吉野ヶ里遺跡発掘に刺激され、古代史研究に取り組む
1991年邪馬台国に到達
1992年卑弥呼の墓を発見
以後検証を続け、1999年に「倭国歴訪」(明窓出版)を出版
2000年持病のために退職し、以後は古代史研究に専念している
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