ドイツを語る ドイツの真実に迫る ドイツとの国交の重要さを……

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「日本ってこんなにいい国だったの!?」
ドイツで育った「日本の心とドイツの心」を持つ青年トミー。
彼の大好きな日本の祖父が、いま天国へ旅立とうとしている。
“優しさ、思いやり、誠実さ”という、旧き良き時代の日本の象徴だった祖父に、
トミーは語り、問いかける……日本の心を。
外から見た日本の姿が、日本人のアイデンティティーを取り戻す「未来への架け橋」となる!


著者オルセンさんへのお尋ね、ご意見、ご感想などを「交流の広場」に書き込んで下さい。




目次 本文70% あとがき

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Copyright (C) 2006 明窓出版, All rights reserved












 
        




                                   
根強い人気の国、それはドイツだ。なぜドイツがそれほどなのか……。ドイツの人気は古くはかの大戦時、同盟を結んだ事に遡る。しかしドイツの人気はただにそれだけだろうか。ドイツ人のいかにもドイツらしい気質、それはドイツの風土からきているとはいえ、ドイツ魂として世界に喧伝されている。ビールだって、ドイツ人は、ドイツの地ビールしか飲まないと聞く。確かにドイツのビールはうまい。しかし、単にドイツビールがうまいというだけで、これほどの「ドイツ大好き」人間がたくさんいるだろうか。ドイツ人もどうやら日本人が大好きのようである。ドイツから日本に観光にやってくるドイツ人も年々増えつづけている。かつての「同盟国」などという血なまぐさい関係でなく、ドイツ・日本友好国を結んだらどうだろうか。それをしも「ドイツと日本がそこまで仲良くなるとろくなことはない」と、ドイツを目の敵にしているどこかの国から、猛反対がくるに違いない。 この「ドイツと日本の真ん中で」は、そういった、ドイツ反対論者に是非読んで貰いたい。ドイツが好きになるだけでなく、「えっ、日本ってこんなにいい国だったの?」と思うことだろう。  編集部
















   推薦の言葉
●●●●●推薦の言葉の中身●●●●●























































       ☆ ・目 次 ☆


    ◎ ドイツと日本の真ん中で 目 次 ◎
一   日本から入ったファックス …………………… 7
二   ドジョウ捕りの思い出 …………………… 10
三   国の違い、習慣の違い …………………… 14
四   僕の後悔 …………………… 19
五   ススキとコスモスの歓迎 …………………… 26
六   〈意志あるところに道あり〉…………………… 32
七   日独間の引越し …………………… 40
八   日本人の心 …………………… 45
九   似ている日本人とドイツ人 …………………… 52
十   日本人の和 …………………… 59
十一  変わっていく日本 …………………… 72
十二   「おじいちゃん、トミーだよ」…………………… 77
十三   一所懸命の日本人 …………………… 82
十四   〈行いを改めるのに遅すぎることはない〉…………………… 91
十五   一九五四年のサッカーワールドカップ …………………… 101
十六   心を満たすもの …………………… 105
十七   満たされた中で …………………… 111
十八   達成感 …………………… 114
十九   限界を試す若者達 …………………… 120
二十   ドイツの子供 …………………… 124
二十一  日本の子供 …………………… 130
二十二  校庭のフリーマーケット …………………… 134
二十三  ドイツ人のたくましさ …………………… 141
二十四  ドイツに帰る …………………… 147
二十五  違う物差し …………………… 151
二十六  おじいちゃんの〈日々是好日〉 …………………… 156
二十七  オミの〈日々是好日〉 …………………… 160
二十八  アネッテ伯母さんの〈日々是好日〉 …………………… 170
二十九  自尊心と悲しみ …………………… 184
三十   おじいちゃんの悲しみ …………………… 188
三十一  「よく見て、考えるんだぞ」 …………………… 197
三十二  神々の魂を呼び起こす音 …………………… 202
三十三  おじいちゃんの人となりの〈最期の言葉〉…………………… 207

     あとがき …………………… 212


























 

  日本人の和



 僕は久しぶりで日本に到着したというのに、こんなにも重い気持ちで高速バスに揺られている自分に、現実感が持てなかった。日本語の宣伝の看板が、窓の外に目をやる僕の視界に入っては消えていった。にぎやかな色どりの看板を見るともなしにぼんやりと目で追っているうちに、黒い袈裟がよく似合ったドイツ人のお坊さんのことが、頭に浮かんだ。
 ドイツのデュッセルドルフという街には日本の会社がたくさんあって、日本人が七千人も住んでいる。そこにあるお寺で、ドイツ人のお坊さんから、仏教についてのお話を聞く機会があった。僕はちょうど例の日本とドイツの歴史の比較についてのレポートを書いたばかりの頃だったから、興味を持って行ってみた。あの晩は、四、五十人のドイツ人が、仏教の講義に熱心に耳を傾けていた。ドイツ人向けに分かりやすくしてくれた説明の中には、印象深い言葉がいくつかあった。
 お坊さんのお話を聞きながら、日本人のあの優しさは、仏教の影響もあるんじゃないかと気が付いた。もしかすると仏教の〈無我〉ということからきているんじゃないかって。〈無我〉の境地というのは、自分を意識しないということ。どの宗教も、その宗教を信じる場合、できるだけその真髄を実践しようとするね。仏教を大切にする日本人はそれで〈我(自分)〉を意識する前に、他の人のことを思いやれるのかもしれない、僕にはそんな気がした。もちろん日本人はいつも仏教のことを意識しているわけではないと思うけど、キリスト教が西洋社会の背景として切り離せないように、仏教も、日本社会の背景として切り離せない。だから多分、日本社会には代々、他の人をまず先に思いやるという姿勢が、無意識のうちに浸透しているんじゃないかと思いついた。
 僕がレポートを書いたとき、日本の農民はドイツの農民と違って、穏やかで従順だったから、支配側に対する抵抗もあまりしなかったのではないかと思った。優しさ、穏やかさ、従順さは日本人の特徴中の特徴だね。日本はそれで、摩擦が少なくて住み心地が良い国、旅をする外国人にも快い印象を与える国になっているのかもしれないね。
 でも、日本の文化習慣の多くが仏教に基づいていて、その根本思想の一つが〈無我〉だとしたら、国際化に合わせての〈個〉を大切にする教育は、日本の文化の中でどうなじむんだろう? 僕は考え込んでしまった。
 日本社会の特徴が〈和〉だということは、外国でもよく知られている。ドイツの街角でも、日本人のグループが和気あいあいとして歩いてるのを見かけることがある。仲よく穏やかに話し合いながら歩いたりしているのを見ると、いつもとてもなつかしくなる。
 仏教の説明を聞きながら、そんな日本人のようすを思い出して、そうか、〈無我〉という影響が無意識のうちにあるから、いつもみんな和やかにしていられるのかもしれない、と思いついたんだ。反面、その〈和〉を保つために、お互いに気を使って、あまり自分(我)つまり〈個〉を出さないように意識しているところがあるかもしれない。逆にだれか一人が我〈個〉を出しすぎると、どうしても〈和〉が乱れそうになって周りの人達は不愉快を感じことになるかもしれない。〈和〉と〈個〉のつり合いがうまく取れるようにするためにはどうしたらいいんだろう。〈和〉を重んじる日本はどうなるんだろう。
 ドイツではどうだろう。僕は、自分の意見を持っている、友達もそれぞれに違う意見や考えをもっている。それでも僕達は仲がいい。一緒にワイワイやっているのがすごく楽しいし、リラックスしながらもどんどん議論をする。考えてみれば、ドイツの僕達がワイワイにぎやかに議論し合ったりしている中にも、〈和〉というのは感じられる。一人ひとりが異なった存在だということを認めた上での、友達同士との〈和〉。ドイツにも、そういう仲間付き合いはある。週末になると大人は夕食会で、若者は仲間と一緒になっては、食べながら会話や議論を楽しんでいる。あの雰囲気の中にも〈和〉はあると思う。それぞれ体験談や意見の交換で、夜中過ぎまで話は尽きない。あれはドイツ人なりに〈和〉を楽しんでいる情景だ、と僕は思うんだ。
 僕は自分が投げかけた質問に、答えを見つけて嬉しくなった。日本でも、国際化に合わせて〈個〉を尊重するようにしながら、いままでどおり〈和〉を保つということはできる。それには、「人間はそれぞれに違って当たり前」という考えにとことん慣れればいいだけだと思うんだ。
 
 以前食事時にそんなことをしゃべっていたら、ボボが面白いことを言った。
「ドイツでは、意見が合わなくて言い争いになると、しまいにはいろんな言葉で喧嘩するでしょう。まあそれは主に男の子だけど、そのための罵りの言葉だっていっぱいあるしね。でも、日本の小学校に行っていたとき、クラスの子達がお互いに意見が合わなかったりすると、突然、強くじゃないけどポカポカッて殴り始めたの。ドイツじゃあんなにすぐに手を出さないけどね。それは多分、自分の考えを言い合うのに慣れていなくて、それで口が間に合わないから手が出たんじゃないかって思うんだけど。罵りの言葉が日本語にはあまりないから、言葉だけじゃ怒りの表現が間に合わない、っていうことなのかなぁ。でも、手を出せない子は、むすっとして、黙ってしまって、口論にならないうちにコミュニケーションを遮断してしまうみたいだし。ポカッか、ムスッか、どっちか。あの頃は別に考えもしなかったけど、今になって考えてみると、どうも極端なんじゃないかって思うのよ」 
 そうかもしれない。日本ではみんなが平穏に暮らせるように、喧嘩や意見の対立のもとになる議論はできるだけ避けているように、僕にはみえる。〈雨降って地固まる〉ということわざもあるぐらいだし、議論も喧嘩も一概に悪いとも言えないんじゃないかな。人間関係に役に立つときだってある。
 自分の意見を持つためには、そのテーマについて、ちゃんと読んだり考えたりしなくちゃならない。実際に人と話し合うことで、初めて自分の考えが本当に分かってくることだってあるしね。考え方も感じ方も違う人間が、それぞれ別な意見を持つのは当然だから、意見が違うからといって、わだかまりは持たなくていいんだ。
 ドイツでの僕達は早くから学校で、自分の意見を自分の言葉で表現する訓練を受けている。たとえば、学校の試験。九年生(中学三年生)ぐらいから、一科目の試験の時間は一時間じゃなくて、三時間や四時間ぐらいかける。五時間のときだってある。国語の試験があるときは、国語の先生は他の教科の先生達と話し合って、朝の授業の一時間目から四時間目まで国語の試験に当てられるようにする。四時間もなにを書くのかって? 
 たとえば地学だったら試験の質問は次のようなものだ。「乾燥地の地形変化について スーダンのアルファシアの場合 地図、添付資料を見ながら土地利用や開発について説明せよ。開発の際にはその問題点を指摘せよ」
 国語の場合の一例「次の詩を解説し、十七世紀(バロック文学)の詩であることがどの点で分かるか説明しなさい」「次のテキストをまとめなさい。あなたは著者の批評を妥当だと思いますか。バロック時代の文学と後々の詩作上の意図とを比較し、その相違点を述べなさい」
 地理の試験は、たとえば、ある国の統計的数字だけが延々と並んでいて、それを分析してどこの国か当てろ、などというのもある。
 英語の試験でも、長文を読んでそれについて自分が考えることを書く。英語の文法や語彙やその他必要なことが分かっているかどうかは、生徒の書く文章から、先生達は判断するというわけ。
 四時間が終わっても、まだ夢中で書いている子がいっぱいいる。質問を読んだら、まずは自分の考えを頭の中でまとめなくちゃならない。いきなり書き始めるわけにはいかないんだ。なぜって、手にしているのは鉛筆じゃなくて万年筆だから。まず考えてから書き始めないと、書き直しを繰り返したら回答用紙が見るも無残になって、それだけで点数が落ちるしね。じっくりと考えて、じっくりと筋を通して書いていく。そんなふうにして大きくなるから、大人になったときにはしっかりと自分の意見を言い表せるようになるんだ。
 だから、街頭インタビューで、新しい政策についてどう思うかと、突然マイクを向けられても、老いも若きもどんどん意見を言っている。サッカーの試合のすぐ後、マイクを向けられた選手達も、ハァ、ハァ、とまだ荒い息をしながら、試合中のいろいろな場面で、自分がなぜそのように動いたのかをいろいろと説明する。そんなようすをテレビで目にするたびに、ママは飽きもしないでいつも感心している。
「よくあんなに自分の意見があるわね」
 あれは、みんな教育の賜物なんだ。
 
 僕は、そんなふうに意見を持つための教育を受けているから、日本のテレビで、偶然にそれと反対の日本的な現象を見てすごく驚いたことがある。
 ある県で、環境破壊になるだけでそれほどの必要性がないらしいという工事中のダムをめぐって、二人の候補者が国会議員選挙を競っていた。一人の候補者は、ダム建設を中止させるという公約をしていた。もう一人の候補者は、ダム建設を続けるとはっきり言うと当選が心配だと考えて、選挙が近づくと、ダム建設については一切口にしなくなったという。ダムが当落を決めるといわれていたその選挙結果は、県全体としてはダム建設反対の人がすごく多かったにもかかわらず、ダム建設推進の現役議員が当選した。開票のあと街に出たレポーターが、人々にインタビューしていた。
「私もダムは反対ですよ。でもね、ま、ダム建設推進のあの候補者に入れました。なぜって? あの人の政党は、やっぱりみんな支持しているからねー」
 にこにこしながらそう答えたおばさんの言葉を、おじいちゃんだったら、僕にどう説明してくれていたんだろう。
 日本では、温和にやるために、問題があっても、あいまいにして事を荒立てないようにして、変化を避けようとすることがよくあるみたいだね。
「そういうときのために〈長いものには巻かれろ〉っていうことわざがあるんだよ」
 おじいちゃんは、僕にそう言ったことがあるね。まあ、そのためには、自分の意見をあまりはっきり意識しない方が楽かもしれない。
 意見を持とうとすると、考えることに筋が通らないとだめだけど、意見として意識しなければ、いろんな考えが自分の中であれこれ矛盾していてもそれほど気にならない。考えと行動の基になることが一致しなくても、別にどうということもない。でも、自分の意見として意識して考えはじめると、それぞれに哲学ができてくる。どんな人にも、それなりに生きる哲学ができてくる。生きる哲学を持つということは、生きるときに力になる、と僕は思うんだ。
 
 自分に意見があるように、他の人にも意見がある。言葉で対立しても、単にそれだけのことで、人間同士が対立するわけじゃないんだ。だれもが後腐れなしにそれぞれの考えを遠慮しないでオープンに言えるような雰囲気が必要だと思う。
 そう言ってやきもきする僕に、おじいちゃん、言ったことあったね。
「日本にも一応〈十人十色〉っていうことわざはあるんだがな。まあ、対立するのを好まないっていう国民性があるから、やっぱり〈沈黙は金、雄弁は銀〉っていう方が日本人には合っているんじゃないかな」
 もちろん、場合によっては、黙っていられることも貴重なことかもしれない。でも、意見を言う必要があるときに、言うことができるということも、これからはきっと大切だと思うんだ。だって、世界中の人が、自分の意見をガンガン言っているじゃない。だから、日本人だって、必要なときは言えるようにしておかなかったら、日本人は、何も言えないと思われてしまうんだ。それは、残念じゃない? 
 
 前に友達の家に行ったら、友達のお父さんが僕に話しかけてきた。
「この間、仕事で日本からお客さんが五人来たから、我が家に招待したんだけどね、この三人掛けのソファに五人で座ろうとするから、こちらにもどうぞって、一人掛けの肘掛け椅子二つの方もすすめたんだけど、どうしてもだれも立とうとしないで、五人で三人掛けの方にぎゅうぎゅう座っていたんだよ。君はこれをどう思う?」
 僕は、僕なりに日本人のお客さんのことを想像して説明した。
「多分、一人だけが立ち上がったら、その人だけ目立ってしまうから、そう思ったら、だれも立ち上がる勇気がなかったのかもしれません」
 家でそのソファぎゅうぎゅうの話をしたら、ママが言った。
「まあ、その日本人のお客さん達はただ遠慮していただけじゃないの」
「でも、その遠慮ということだって、控え目にして目立たないよう気をつけるということからくるマナーなんでしょう? もちろん、遠慮深いってことには好感が持てるよ。だけど、控え目に控え目にっていうのは、日本人が、目立つっていうことをよくないと見るから、マナーにまでなるんじゃない?」
 僕がそう食いつくと、ママが笑いながら言った。
「まあ、そう言ったらきりがないけどね。今はどうか分からないけど、私が学校に行っていた頃は、一人だけ人と違う意見を言ったり、目立ったりすると、居心地がよくなくなるから、できるだけみんなと同じようにしようと心掛けてはいたわね」
 
 ソファぎゅうぎゅうの話で思い出したことがある。日本に引っ越したばかりの僕達が電車に乗ったとき。向かい側に女の人達が四、五人偶然にも同じ模様のバッグをひざの上にのせて座っていた。なんでも小さいことに気が付くボボが言った。
「ママ、お姉さん達みんな同じ模様のバッグ持っているね」
 ママがあわてて言った。
「しーっ、あれは、有名なデザイナーのすごく高いバッグなのよ」
「ママ、でもあれ、あんまりきれいな模様じゃないじゃない」
 バッグで遊ぶのが好きなボボがこだわってバッグについてしゃべるから、ママはあせって、短く答えた。
「多分あの模様しかなかったんでしょう」
 
 日本に行くと、僕もときどきそんな光景に出くわす。同じデザイナー物を持っている人達もいれば、すごく奇抜な格好をした若者もいる。人と同じようにして安心する気持ちと、自分の思うようにしたいという気持ち。同じ車両の席に隣合っている彼らのようすを見ると、僕は日本の若者の内心が見えてくるような気がする。
 日本の学校では、大体どこにでも制服があるから、それで、人と同じような物を着て落ち着くという気分が身に付いたのかもしれないね。反面、自由になると急に、自分という意識が芽生えて、いろいろと目立つ格好をしてみたくなるのかもしれない。男子にだって洋服にすごいエネルギーを使っている子もいる。
 でも、あの若者達に聞きたい。「服装などの表面的なことより肝心なこと、考えているの?」ってね。ドイツの学校ではもともと制服はないから、ジーンズやただのズボンにトレーナーやセーター、と生徒達はかなり似たような格好をしている。そのかわり個人の意見となると、驚くほどさまざまだ。
 でも、街でみかける若者のようすに、僕は、日本が確実に変わりつつあるというのを感じる。身に着けるものだけでも、人と違いたい、自分は自分でいたいという強い欲求がきっとあるんじゃないかな。それは、自我の意識が強くなっている表れで、〈個〉が定着する一過程なのかもしれない。
 そんなことをあれこれと話したとき、おじいちゃん、腕を組んでうなずきながら言ったね。
「まあそれにしても、ドイツ人の孫はいろんな意見を持っているものだ。トミーが考えるとおりかもしれないね。まあ、時間はかかるけど、大丈夫だよ。日本にだってちゃんと、トミーが考えるようなことを表す言葉があるんだよ。〈和して同ぜず〉っていうんだ。ほら、あそこ」
 そう言って指差したのは壁にかかった一枚の日本画だった。白い大きいカブの横に小さい赤カブが二つ並んでいて、右肩に漢字が並んでいた。


 あ、ゴメンナサイ。立ち読み部分はここで終わりなんです。ここまで読んで下さって有りがとうございます。
 このあともっと面白くなりますから買っていただけるとすごく嬉しいです。 


















 あとがき



 さまざまな分野でグローバル化が進む中、国際交流、留学等々、日本人と外国人の相互理解のための機会がますます大切になっていますが、国際結婚は言ってみれば、個人的国際理解の究極のようなものかもしれません。
 ドイツ人と日本人が家族として暮らすときには、言葉や文化習慣の相違による摩擦もあり、お互いに勉強することも多くなります。ドイツと日本の真ん中で、異なった文化圏出身の両親のもとで育った子供達にとっては、その勉強の量は普通の子供達の倍になるかもしれません。たとえば話し始めたばかりの幼い娘が「パパ、マウス、言う、ママ、ねずみ、言う、ナナ、どっちも言う」と遊びながら言っていたように、日々吸収することも多くなります。自分の家で当たり前だと思っていたことが、よその家にいくとそうではないことに気がつくこともあります。そんなことからも、文化比較は我が家の食卓の話題としてよく上ります。
 人は知らないこと(言葉・文化習慣)には、つい警戒をしてしまいますが、いったん知ってしまえば、自然にそれを受け入れることもできます。日常生活の中で西洋と東洋の文化に囲まれて暮らしてきた子供達を見ながら、二つの国をふるさととして生きることは根無し草になることではなく、両方の文化習慣を自分という存在の一部として理解し、その分だけ人間として豊かに寛容になれることだと思います。       後略






















 著者プロフィール



1951年 茨城県生まれ
東京女子大学短期大学部英語科卒
1974〜1975年 カリフォルニァ大学短期留学
1978年よりドイツ在住
1987〜1990年 兵庫県在住
現在 ドイツ・ベルギッシュグラッドバッハ在住

訳書 2002年「ルイーゼの星」(求龍堂)
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本の誕生秘話

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